映画「レ・ミゼラブル」を観ました。感動しました。映画もヒットしているようです。
 
実は私はヴィクトル・ユーゴーの原作をろくに知りませんでした。私が子どものころ、少年少女向け世界名作シリーズには必ず「ああ無情」が入っていたものですが、私はそのタイトルを見て敬遠し、「宝島」や「十五少年漂流記」や「トム・ソーヤの冒険」などばかり読んでいました。ミュージカルの舞台も観ていません。
もともと原作が名作である上に、ミュージカルのシナリオもよくできているのでしょう。多数の登場人物が複雑に入り組んだ長い年月にわたる物語もすんなりと頭に入ってきます。
 
物語の発端は、さすがに私も知っていました。ジャン・バルジャンはパン1個を盗んだために懲役5年の判決を受け、脱獄の罪などで19年の服役ののちに出獄します。心のすさんだ彼は、ある教会で世話になったとき教会の銀の食器を盗んで憲兵に捕まります。さらなる重罰が科せられるのは確実ですが、教会の司祭は、その銀器は私が彼に与えたものだと言って彼をかばい、さらに銀の燭台までも与えて彼を釈放させます。このときジャン・バルジャンは司祭の寛容な心に触れて改心します。
一方、ジャン・バルジャンを追いかけているジャベール警部がいます。ジャン・バルジャンが「寛容と愛」の人だとすれば、ジャベール警部は「非寛容と正義」の人です。
 
王政派と共和派が対立するフランス革命の時代が背景です。ヴィクトル・ユーゴーは共和派ですから、当然そういう政治的主張があるわけですが、それをストレートに出さずに2人の人物の対立として描き、それがさらに寛容対非寛容という原理の対立にもなるという物語の骨格がひじょうによくできています。
 
社会の大きな変動を背景に個人の運命を描くということでは、デビッド・リーン監督の「ライアンの娘」や「ドクトル・ジバゴ」が想起されますが、やはりこうした映画は感動のスケールも大きくなります。
 
ミュージカル映画といっても、アメリカ風の歌って踊るものではなく、台詞が歌になっているだけなので、ミュージカル嫌いの人でも抵抗なく観られるのではないでしょうか。
 
私はどうしても「科学的倫理学」という自分の思想に引きつけて見てしまう傾向があるので、そうすると、倫理学の教科書の演習問題にしたいような出来事の連続に見えてきます。たとえば、ジャン・バルジャンは自分と間違われた男が裁判にかけられていることを知り、その男を救うためにみずから名乗り出るべきか、それとも黙っているべきか悩みます。また、恋人を追っていくべきか、仲間とともに革命の蜂起に加わるべきか、蜂起が不利な形勢になったとき、戦いをやめるか、戦い続けるべきかなど。
 
印象的なシーンはいっぱいありますが、たとえば若い男が1人の女性に恋をすると、その若い男に思いを寄せていた別の女性は当然失恋することになります。世の中にはありふれた出来事です。しかし、3人がひとつの歌を歌うシーン (歌うパートは違う) を見ると、心が揺さぶられます。
人生には愛が得られないこともあります。その現実を受け入れる心の強さ(これも広い意味での寛容でしょう)のたいせつさを感じさせられます。これと比べると「愛は勝つ」なんていう歌は現実逃避としか思えません。
 
また、革命の蜂起の中で、1人の子どもが戦いに立ち上がり、敵の銃弾に撃たれて死にます。原作では12歳の少年となっているそうですが、映画では10歳に満たない子どものように見えます。現代の映画では決して見られないシーンです。
現代の映画では子どもが死ぬシーンはめったにありませんが、そういう意味ではなく、子どもがみずからの意志で自分の人生を決めるというシーンはまったくないという意味です。
 
現代の映画や物語に出てくる子どもは、かわいかったり生意気だったりしますが、基本的におとなの支配下にあります。つまり子どもは「教育される客体」です。そして、もし子どもが死ぬシーンがあれば、それはあくまで気の毒な犠牲者として描かれます。
しかし、この映画では子どもが「生きる主体」として登場し、その死は誇りある死として描かれます。そのことに感動します。
 
アナール派歴史学の代表的著作「『子ども』の誕生」(フィリップ・アリエス著)によると、近代以前は子どもは単に「小さなおとな」と認識されていて、今の私たちがいだいているような子ども像は近代になってから生まれたものだということです。「レ・ミゼラブル」には近代以前の子ども像が出てくるということでしょう。
 
 
ところで、朝日新聞を読んでいたら、フランスではなぜ日本のマンガが広く受け入れられているのかということを探った『マンガジュテーム〈「なぜ」を訪ねて:8〉』(1月9日朝刊)という記事があり、フランスで伝説のマンガ雑誌を創刊した竹本元一さん(60)という人がこんなことを語っていました。
 
「フランスは天地をひっくり返す革命の国。いつも善人が悪人をやっつける米国のヒーローものだけでは物足りないのです」
 
そう、「レ・ミゼラブル」はアメリカ風のエンターテインメント映画とはまったく逆の構造になっています。
ジャン・バルジャンは犯罪者です(仮釈放の身で逃亡した)。ジャベール警部は正義を実現するためにジャン・バルジャンを追っています。となると、ジャベール警部がジャン・バルジャンを逮捕するか殺すかしてエンディングとなるのがエンターテインメント映画の常道です。
しかし、「レ・ミゼラブル」では、すでに述べたようにジャン・バルジャンは「寛容と愛」の人として描かれます。かといって、ジャベール警部が悪人というわけではありません。正義を信じて行動していますし、正義が信じられなくなると悩みます。
 
アメリカ式エンターテインメント映画では、正義対悪という構図になっており、「レ・ミゼラブル」では寛容対不寛容という構図になっているととらえるとわかりやすいでしょう。
 
アメリカ式エンターテインメント映画では、最後は正義のヒーローが悪人を殺して、観客はスカッとするという仕組みになっています。スカッとはしますが、別に感動はしません。
しかし、「レ・ミゼラブル」では深い感動があります。
 
映画に限らず世の中を寛容対不寛容という構図で見てみると、いろんなことが見えてきます。
 
今の世の中はジャベール警部的な不寛容の原理におおわれています。凶悪犯が裁判にかけられると、マスコミや世論は犯罪者に対して謝罪しろ、反省しろと迫りますが、そんなことで反省の気持ちがわいてくるわけがありません。あの教会の司祭のように、犯罪者のことを心から思う人間がいて、その心にふれたときに犯罪者は改心するのです。
 
フランス革命がバスチーユ監獄を襲撃して囚人を解放することから始まったことを忘れてはなりません。
 
今は曲りなりに民主主義の世の中になり、倒すべき王政もありませんが、寛容対不寛容の戦いは続いています。
その意味では、革命の旗は今も振られねばなりません。