大阪市立桜宮高校の2年男子生徒がバスケットボール部顧問の教師から体罰を受けたのちに自殺した事件が大きな騒ぎになっています。
“イジメ自殺”の次は“体罰自殺”というわけで、マスコミと世論の騒ぎ方はいつもながらおかしいものです。
体罰は日常的に行われているのに放置してきて、自殺者が1人出たとたんに大騒ぎするのですから。
たとえば、橋下徹大阪市長は「事実なら完全に犯罪で、暴行、傷害だ」と述べ、みずから陣頭指揮をとるとして、市長直轄の調査チームを設置しました。しかし、橋下市長は前から体罰肯定論をテレビでぶってきました。みずからこういう事件が起こる下地をつくってきたわけで、この豹変ぶりにはあきれてしまいます。
また、保護者の中にも教師に体罰をするように要求する人が少なくありませんし、文化人やテレビのコメンテーターなどで、「学校で体罰が禁止されたために子どもがだめになった」などと言う人も少なくありません。
私はもちろん体罰には反対です。「体罰」ではなく「教師暴力」という言葉を使ったほうがいいと思います(親の体罰は「親暴力」というわけです)。
よく「言ってわからない小さな子どもには体でわからせるしかない」ということを言う人がいますが、これは自分の怒りを抑えられないおとなが自分を正当化するために言っているだけです。言ってわかる年齢になるまで待てばいいだけの話です。小さい子どもに暴力をふるうのは人間として最低の行為です。
体罰を批判するのは当然ですが、今はみんなが批判しているので、私は少し角度を変えて、なぜ体罰がこれほど広く行われているのかということについて考察してみたいと思います。
朝日新聞1月12日朝刊に元プロ野球投手の桑田真澄氏のインタビューが載っていますが、それを読むと体罰の蔓延ぶりがわかります。
早大大学院にいた2009年、論文執筆のため、プロ野球選手と東京六大学の野球部員の計約550人にアンケートをしました。
体罰について尋ねると、「指導者から受けた」は中学で45%、高校で46%。「先輩から受けた」は中学36%、高校51%でした。「意外に少ないな」と思いました。
ところが、アンケートでは「体罰は必要」「ときとして必要」との回答が83%にのぼりました。
また、元プロ野球選手の長嶋一茂氏はテレビでこのように語ったということです。
さて、正月休みを終え、この日がコメンテーターとしての仕事始めという長嶋一茂発言。司会の羽鳥慎一が「一茂さんは高校時代も野球部で、大学も体育会。厳しい指導を受けてきたんでしょうが、その辺はどうですか」ときいた。すると、長嶋は体罰擁護をとうとう語り始めたのだ。
「われわれはビンタとかバットで尻を叩かれるなど、他のしごきを含めて、このレベルじゃなかったですけど、殴られながらもボクは愛情を感じていましたよ。何十発殴られても、いまだ恩師だと思っている。そういう関係性がひと昔前はあった。限度を超えてはいけないが、ある程度のビンタのようなものがこれで一斉に廃止しちゃうとどうなのかなというのがあるね」
また、事件の当事者である桜宮高校のバスケットボール部顧問は、体罰についてこのような考えを語っています。
大阪市立桜宮高校では、バスケットボール部のキャプテンだった2年生の男子生徒が先月23日、自宅で自殺し、その前日まで顧問の教師から体罰を受けていたことが明らかになっています。
この問題で、顧問が大阪市教育委員会の調査に対し、みずからの体罰について、「強い部にするためには必要だと思う。体罰で気合いを入れた」と話していたことが分かりました。
教育委員会側が、「体罰のない指導は無理だったか」と聞くと、顧問は「できたかもしれないが、体罰で生徒をいい方向に向かわせるという実感があった」と話したということです。
これらは「体罰効用論」とでもいうべきものです。暴力はいけないことだとしても、それによってスポーツが強くなるならいいのではないかという考えです。
先の朝日新聞のインタビューで桑田真澄氏は逆に「体罰マイナス論」というべきことを語っています。
暴力で脅して子どもを思い通りに動かそうとするのは、最も安易な方法。昔はそれが正しいと思われていました。でも、例えば、野球で三振した子を殴って叱ると、次の打席はどうすると思いますか? 何とかしてバットにボールを当てようと、スイングが縮こまります。それでは、正しい打撃を覚えられません。「タイミングが合ってないよ。どうすればいいか、次の打席まで他の選手のプレーを見て勉強してごらん」。そんなきっかけを与えてやるのが、本当の指導です。
(中略)
体罰を受けた子は、「何をしたら殴られないで済むだろう」という後ろ向きな思考に陥ります。それでは子どもの自立心が育たず、指示されたことしかやらない。自分でプレーの判断ができず、よい選手にはなれません。そして、日常生活でも、スポーツで養うべき判断力や精神力を生かせないでしょう。
桑田さんは立派な見識を語っておられます。私は体罰反対派ですから、桑田さんの意見に賛成したいと思うのですが、現実を見ると、「体罰効用論」のほうが有力ではないかと思えてきます。
というのは、もし「体罰マイナス論」が正しければ、「体罰ありチーム」と「体罰なしチーム」が戦った場合、「体罰なしチーム」の勝率が高くなるはずです。そうすると、長く戦っているうちに次第に上位チームは「体罰なしチーム」によって占められていくはずです。そして、それを見た「体罰ありチーム」は方針を変更して「体罰なしチーム」になり、ほとんどのチームは「体罰なしチーム」になるはずです。
しかし、現実は多くの強豪運動部は「体罰ありチーム」です。ということは、「体罰ありチーム」のほうが「体罰なしチーム」よりも勝率がいいということが推測されます。
だから体罰がいいということを言っているのではありません。「体罰は悪いことだが効用がある」ということを言っているのです。
これは軍隊を見てみればわかります。世界のほとんどの国の軍隊に体罰はあります。日本軍のビンタだの精神注入棒だのは有名ですし、今の自衛隊でも体罰があるのは公然の秘密です。ロシアではソ連崩壊とともに軍隊内の惨状が明らかになりましたし、アメリカ軍の実態は、たとえば映画「フルメタル・ジャケット」によく描かれていますし、「愛と青春の旅立ち」のような甘い映画にも新兵訓練の過酷さが描かれています。
軍隊は、体罰を含む過酷な訓練をするほど強くなるので、そうした軍隊が勝ち残り、体罰のない甘い訓練をしている軍隊は負けて消滅していきます。その結果、世界の軍隊のほとんどで体罰が行われるようになったというわけです。
スポーツの世界にも同じようなことがあるのではないでしょうか。
もっとも、「体罰効用論」が正しいとしても、それは目先の勝利が得られる程度の効用でしかありません。体罰が人間形成にマイナスなのは言うまでもないことです。一定以上の体罰を受けた人間は、体罰肯定論すなわち暴力肯定論を主張し、しばしば暴力をふるいます。
ただ、野球のように将来プロとして生活していける可能性があると、とにかく勝てばいい、強くなればいいということで、体罰が蔓延しやすくなる理屈で、現実にそうなっています。
体罰は禁止するべきですが、体罰の一定の効用を認めた上で禁止したほうが、より禁止が徹底できると思います。
体罰の効用といっても、スポーツの種類によっても変わってくるでしょう。
野球というのは監督の采配によって選手が駒のように動き、選手の自主的判断や創造性はあまり必要のないスポーツかもしれません。バットでボールを打つのもほとんど反射神経の問題ですから。
その点、サッカーは選手の自主的判断や創造性の要素が大きいと思われ、桑田氏の見識が生きてくるでしょう(バスケットボールのことはよくわかりません)。
テニスのような個人競技では、効用はほとんどなくマイナスばかりではないかと思われます。
ただ、相撲のような格闘技では効用が大きいかもしれません。
また、たいていのスポーツでは自主的に練習しなければなりませんから、学校時代に体罰で練習させられたことはのちにマイナスになるはずです(プロ野球選手というのはずっと練習させられ続けてきており、そのため練習嫌いの人が多い)。
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