大阪市立桜宮高校のバスケットボール部キャプテンの男子生徒が体罰を受けたあと自殺した問題に関して、前バレーボール全日本女子代表チーム監督の柳本晶一氏が顧問に就任したというニュースがありました。バレーボールの人がバスケットボール部の顧問に就任するとはへんな話だなと思ったら、そうではなくて「桜宮高校改革担当の市教委事務局顧問」に就任したのでした。桜宮高校全体の指導に当たる立場なのでしょう。
 
柳本氏の発令式「生徒たちを元気にしたい」
 
結局のところ、体罰問題が桜宮高校の運動部の立て直しの問題にすりかわっています。桜宮高校の運動部がどうなるかということは大した問題ではありません。体罰さえ禁止すれば、あとは生徒に任せておいてもいい問題です。
 
女子柔道日本代表での体罰問題が表面化したこともあって、「スポーツと体罰」ということがクローズアップされています。しかし、学校においては、部活における体罰よりも教室における体罰のほうがより大きな問題です。部活の場合は、体罰教師がいたら部活をやめてしまってもいいわけです(桜宮高校のスポーツ系学科においてはそう簡単な問題ではなかったようですが)。しかし、教室での体罰の場合、生徒に逃げ道がないので深刻です。
 
また、高校生にもなると、教師もそう簡単に体罰はできません。小学校と中学校の体罰のほうがより深刻であるに違いありません。
 
日本の学校において、どうしてこのような体罰の伝統が生まれてしまったのでしょうか。ちょうど政治学者の片山杜秀氏が朝日新聞に書いておられたので、その一部を引用します。
 
体罰、近代日本の遺物 「持たざる国」補う軍隊の精神論
 日本の軍隊では体罰は日常茶飯事だった。戦後5年めの座談会。政治学者の丸山真男は徴兵体験をこう振り返る。「(なぜ殴られるのか)考えているうちに十くらい殴られてしまうん(笑声)ですからね」
 
 軍隊での暴力的指導はいつからのことか。明治維新期の建軍当初からか。そうでもないらしい。敗戦時の首相、鈴木貫太郎は海軍軍人。日清戦争前に海軍兵学校を卒業した。自伝を読むと、その頃の兵学校は暴力と無縁だったという。
 
 転機は日露戦争。元陸軍大将の河辺正三が戦後に著した『日本陸軍精神教育史考』にそうある。相手は超大国。ロシア軍は大人数で装備もよい。「持たざる国」の日本が張り合えるのか。大慌てで新規徴兵した。しかし中身が伴わない。練度が低い。弾も少ない。戦闘精神も上官への服従心も不足。おまけに敵は西洋人。体格がいい。小柄な日本人が白兵戦を挑むとなるとつらい。
 
 苦心惨憺(さんたん)のやりくりの末、日露戦争は何とか負けずに済んだ。が、次は分からない。仮想敵国は西洋列強ばかり。常備戦力を彼らに太刀打ちできるほど増やす。装備も訓練も一流にする。そうできればよい。しかし、日本は人口も武器弾薬も工業生産力も足りない。結局、期待されたのは精神力だ。戦時に動員されうる国民みなに、日頃から大和魂という名の下駄(げた)を履かせる。やる気を示さぬ者には体罰を加える。痛いのがいやだから必死になる。言うことも聞く。動物のしつけと同じ。
 
 もちろん軍隊教育だけではない。大正末期からは一般学校に広く軍事教練が課された。過激なしごきは太平洋戦争中の国民学校の時代に頂点をきわめた。
 
 『日本人はどれだけ鍛へられるか』という戦争末期の児童書がある。日本人はしごかれると英米人よりもはるかに高い能力に達するという。理屈はよく分からない。でもそう信じれば勝てるという。これぞ精神論である。
 
 戦後、日本から軍隊は消えた。しかし暴力的指導の伝統はどうやら残存した。「持たざる国」の劣位や日本人の体力不足は気力で補うしかない。日本人は西洋人に個人の迫力では劣っても、集団でよく統率されれば勝てる。そういう話は暴力的な熱血指導と相性がよい。体格の立派な外国人と張り合うスポーツの世界ではなおさらである。
 
軍隊式の教育が今も行われているということでしょう。校庭に整列しての朝礼とか、気をつけ、休め、右向け右などの動作練習も軍隊式の名残りです。こういうことは実生活ではなんの役にも立ちません。
ただ、軍隊ではこうしたことが役に立ちますし、体罰も強い軍隊には欠かせません。元自衛隊航空幕僚長の田母神俊雄氏がツイッターで、マスコミは体罰問題を騒ぎすぎだと批判して、「騒げば騒ぐほど現場の指導的立場の人たちが指導力を失うことになります」「背景には強い者は悪く、弱い者が正しいという左翼思想が存在しているのです。日本弱体化進行中」と書いたのも、その立場としてはもっともなことです。
 
左翼が体罰反対かというと、必ずしもそうではないと思われますが、体罰に賛成か反対かは、その人の生き方を規定するぐらいの大きな問題です。
たとえば、体罰を受けた人が「体罰に愛情を感じた。愛情のある体罰ならいい」と言って体罰を正当化する場合がよくあります。私はこれを「動機における正当化」と呼んでいます。つまり暴力行為そのものを正当化するわけにいかないので、「愛情」という動機を想定することでなんとか正当化するわけです(そういう人に対して私は「殴る愛情」より「殴らない愛情」のほうがいいのではないですかと反論しますが)
 
このように暴力を愛情と結びつけて正当化した人は、恋愛の相手に対して暴力をふるう可能性がありますし、自分の子どもに対しても暴力をふるう可能性があります。
こういう人が世の中にいっぱいいるというのは、考えてみれば恐ろしいことです。