人を礼儀知らずとかマナーをわきまえないとかいって非難する人は、その人自身がろくでもない人だというのが私の考えです。
もっとも、こんなことをいうと、ほとんどの人は日常的に人を礼儀知らずとかマナーをわきまえないとかいって非難しているので、総反発を買ってしまいそうです。
そこで、実例を示してみましょう。東京都では保育所不足が深刻で、杉並区の待機児童をかかえた母親らが行政に異議申し立てをしましたが、これについて2月27日付朝日新聞朝刊東京版に「杉並・保育園問題、区議ブログに批判殺到」という記事が載りました。
その区議ブログは次のどちらでも読めます。
 
BLOGOS
一抹の忸怩なき待機親に一抹の疑義あり
 
田中ゆうたろうブログ
一抹の忸怩なき待機親に一抹の疑義あり
 
このブログのさわりの部分だけ引用しておきます。
 
私は、今のこの不況を本質的に打破するためにも、女性力を思い切って爆発させることは必要だと考えている。仕事と子育てを真に両立できる社会を創らねばならないと強く願っている。だが、それゆえにこそ、「子育ては本来は家庭で行うもの」という基本中の基本を忘れるべきではないと痛感する。一抹の遠慮も忸怩の念もなく、声高に居丈高に「子供を持つなということか」「現状のおかしさに気付いて」などと世を恨むかのような態度は、それこそどこかおかしい、どこか的を外している。「お願いです。私達の子育てをどうか手伝って下さい」、これが待機親に求められる人としてのマナー、エチケットというものではなかろうか。
 
 
この田中裕太郎区議は、仕事と子育ての両立を考えている人のようです。となれば、異議申し立てする母親たちと同じ立場に立ってもいいはずです。
しかし、それはタテマエで、本音のところは男権主義的な考えなのでしょう。そのため、女たちが集団で行政に抗議してくるということががまんならなかったに違いありません。また、田中区議は幼稚園の主事を務める教育畑の人で、そのため人に道徳を説くということも普通のことと思っているのでしょう。
そこで、行政に文句をつけてくる母親たちを「声高に居丈高に」「世を恨むかのような態度」と決めつけ、「人としてのマナー、エチケット」を説いてしまったというわけです。
 
ここでのマナー、エチケットはまさに人を非難・攻撃する道具となっています。
 
ただ、田中区議の誤算は、自分は政治家で、マナー、エチケットを説いた相手が有権者であったことです。政治家対有権者という関係では、有権者のほうが優位です。そのためブログには批判が殺到してしまいました。
 
もしこれが夫と妻の関係であったらどうでしょうか。夫が妻に対して優位に立っているときは、「お前はマナー、エチケットがなっていない」「夫に対する感謝が足りない」などという主張がそのまま通ってしまいます。
 
 
また、電車内でベビーカーを利用することについてマナー論議が起きたことも記憶に新しいところです。
一般乗客にとって、満員電車にベビーカーで乗り込んでこられるのは確かに迷惑なことです。ですから、ベビーカーの利用をやめろという主張があるのは不思議なことではありません。ただ、これはあくまで利己的な主張です。
利己的な主張がいけないというのではありません。むしろみんなが利己的な主張をすると、問題がはっきりと見えてきます。
 
「こんな満員電車にベビーカーで乗ってくるな。どうしても乗りたければ子どもを抱っこしろ」
「いちいちベビーカーを畳んで抱っこするのはたいへんなのよ。それぐらいのスペースは空けなさいよ」
 
こうしてお互いに利己的な主張をぶつけ合って、妥協点を探ればいいわけです。
 
ただ、一般客のほうが多数で、ベビーカー利用者が少数であるという問題があります。そのため多数派有利の結論に導かれがちです。
その結果どうなるかというと、「ベビーカー利用者はマナーを守れ」という主張が通り、「ベビーカー利用者に対して一般客はマナーを守れ」という主張は退けられてしまいます。
これがつまりベビーカーのマナー問題の本質です。
 
田中区議のブログ発言や、電車内ベビーカー問題について考えると、人に対してマナーを説くというのはどういうことかわかるのではないでしょうか。
 
ちなみに私は、人の行為を迷惑に感じたときは、マナーを説いたりせず、「その行為はやめてもらえませんか」とやんわりと頼みます。これは相手の思いやりに期待するやり方です。
一方、マナーを説くというのは、圧力をかけて相手を動かそうとすることですから、相手と衝突する恐れがありますし、少なくとも相手を不愉快にすることは間違いありません。
どちらが世の中をよくするかは明らかではないでしょうか。