意外とありそうでないのが反教育論の本です。
教育批判、学校批判の本はいっぱいありますが、それらはたいてい「よりよい教育」を実現しようという立場です。教育そのものへの懐疑や否定の立場に立つ本はめったにありません。
 
「反教育論」(講談社現代新書)の著者の泉谷閑示さんは変わった経歴の人です。東北大学医学部を卒業したあとパリ・エコールノルマル音楽院に留学し、現在は精神科医として働く一方で舞台演出や作曲家としての活動も行っているということです。
私が思うに、医者と音楽家というのは「親がむりやり子どもにやらせたい二大職業」です。本人はその気がないのに医学部に行かされている人と、才能もないのにピアノやバイオリンをやらされている子どもが日本にはいっぱいいます。そのふたつの職業をやっている人は世界でも希でしょう。
そういう立場の人だからこそ書けた本ということがあるのかもしれません。
 
泉谷さんは職業柄、うつ病や神経症患者など、人生に行き詰った人々に多く接するうちに、彼らのある傾向に気づきます。
 
彼らは、幼少時からこまごまと大人たちに世話を焼かれ、大小にかかわらず先回り的にあらゆる危機や失敗につながる障害物を除去され、「お受験」のために幼児教育の塾に通わされ、それ以外の時間も各種「習い事」で埋め尽くされ、休日でさえもレディメイドな娯楽の予定がびっしり組まれていたといった生育史を持っていることが多い。
 
このように育てられた彼らは「優秀な」大人になるが、真の思考力や即興性が育っていないので、マニュアルの存在しない状況になると機能不全になってしまうというわけです。
 
著者は古今東西の名著からさまざまな言葉を引用しながら反教育論を展開していきますが、次の言葉が教育の間違いをいちばん端的に指摘しているのではないでしょうか。
 
二十世紀の人たちは大きな勘違いをしてしまった。それは、「人間が育っていくためには学習が大切だ」というのを、「人間を育てるには教育が大切だ」と思い込んでしまったことだ。(動物行動学者日高敏隆の言葉)
 
「学習」は好奇心の発露に基づいて自発的に行われるもので、そこには知的探求の喜びがありますが、「教育」になると、砂をかむような受動的作業になってしまいます。
もし人間の「脳」だけに注目すれば、あるいは人間を機械のようなものだと見なせば、自発的に学んだことも受動的に教えられたことも同じになるかもしれません。しかし、人間は機械ではなく、「心」という野性原理を備えた存在ですから、受動的なことばかり強いられていると「心」が病んでしまうというわけです。
 
著者は音楽家でもあるだけに、音楽教育において「早期教育」や「基礎教育」がかえって深刻なダメージを生んでしまうことを警告します。パリの音楽院に来ている日本の留学生の多くは、他国からの留学生よりも高い技術水準を備えているが、その演奏には、音楽を心から愛しているとか、演奏することに喜びを感じているとかいったものがなく、音楽というよりも「音楽の死体」ともいうべき音の連なりになってしまっているといいます。
 
著者の主張は明快ですが、今の世の中にこうした考え方をする人はほとんどいません。そのため著者がこの主張を展開するにはそれなりの勇気がいったことと思います。古今東西の名著から言葉を引用するのも、権威に頼りたい気持ちが多少あったのかもしれません。
 
また、新しい考え方だけに、未熟というか、わかりにくいところもあります。
たとえばこの本には「猿の思考から超猿の思考へ」というサブタイトルがついていますが、これだけ見てもなんのことかわからないでしょう。そして、中身を読んでも、あまりよくわかるとはいえません。
 
著者は野性原理を象徴するものとして狼を持ち出し、その対極にあるものとして猿を持ってきます。ここでの猿は、動物としての猿ではなく、猿真似、猿知恵というときの猿です。これがわかりにくいといえます。動物としての狼と、文化的イメージとしての猿を対比しているからです。
そして、「超猿」という言葉を持ってきます。これはニーチェの「超人」からきた言葉です。
それらのことを踏まえると「猿の思考から超猿の思考へ」という言葉の意味がわかるはずですが、ニーチェの思想に無関心か否定的な人には、やはりよくわからないでしょう。
私自身は、反教育論を展開するのにニーチェを持ってくる必要はないのではないかと思います。
 
この本には数学者の岡潔の言葉が何度も引用されていて、私はそれを読んで感心したので、図書館から岡潔の本を借りてきました。しかし、それを読むと、岡潔の考えは決して反教育論的なものではありませんでした。
たとえば、岡潔は詰め込み教育を批判して、寺子屋式の教育がいいと言います。寺子屋式の教育とはなにかというと、論語の素読を、内容はわからなくても百回ぐらい繰り返させることだというのです。
岡潔は寺子屋の教育を誤解しています。寺子屋はあくまで実用の教育をするところですから、論語の素読などはしません(それは藩校のことでしょう)
それに、素読を百回やらせるというのも、子どもに受動的な作業をやらせることで、自発的な学習を阻害する行為です。それに、百回読めばわからないことがわかってくるというものでもないと思います。
詰め込み教育はバカバカしいものですが、論語百回の素読も同じくらいかそれ以上にバカバカしいものだと思います。
 
この本にはエーリッヒ・フロム、ヘルマン・ヘッセ、バートランド・ラッセルらの言葉も引用されていますが、これらの人も教育に根本的な懐疑を持っていたということはないと思います。教育の愚かな部分を批判しただけではないでしょうか。
 
教育の根本的な否定は、今手探りでなされている最中ですが、著者の泉谷閑示さんは大きな仕事をしたと思います。
 
今、学校教育も家庭教育も明らかに機能不全に陥っています。これは「大人の教育」が「子どもの学習」を圧倒しているからです。ですから、対策としては、「大人の教育」をゆるめ、「子どもの学習」を回復させることです。
ところが、ほとんどの人はもっと教育を強化しなければならないと考えて、事態をさらに悪化させています。
 
最近は、知識の詰め込みだけでは足りず、道徳の教科化によって道徳の詰め込みまでしようとしています。愚かさもきわまった感じです