若者が生きにくい時代です。
おとなが若者を抑圧するのはいつの時代も同じですが、最近はとりわけネットの中で、若者自身がおとなの論理を身につけて、若者を抑圧する側に回っているケースが多い気がします。
たとえば、暴走族などの不良をDQNといってバカにしたり、、心の病んだ人を「メンヘラ」といってバカにすることがよく行われますし、「自分探し」をする若者をバカにする言説もよく見られます。
ほんとのおとなは若者を抑圧しても、いちいち若者をバカにすることはないと思います。
若者をバカにするのは同じ若者だからに違いありません。
 
私はこういう若者を“プチおとな”と名づけたらいいのではないかと思っています。
 
「見た目は子ども、頭脳はおとな」は名探偵コナンですが、こちらは「言うことはおとな、心は子ども」というわけです。
 
“プチおとな”が出現したのは、尾崎豊の「15の夜」という曲の「盗んだバイクで走り出す」という詞が否定的に語られるようになったころからではないかと思います。
 
「15の夜」は尾崎豊の作詞作曲で、改めて読むと若者の心情をみごとに描いたすばらしい詞だと思います。
 
「15の夜」の詞全文はこちら。
 
しかし、これを否定する側の論理ももちろんわかります。バイクを盗むのは犯罪だからですし、無免許運転も犯罪です。
 
しかし、そもそもなぜ15歳だと運転免許が取れないのかという問題があります。現にこの詞の主人公はバイクの運転ができるのですから、免許が取れないというのは不当です。
それに、16になれば免許を取ってバイクに乗れるようになるかというと、たぶんそうはいきません。多くの高校では当時、「三ない運動」(高校生に運転させない・買わせない・免許を取らせない)というのが行われていたからです(その後、違法判決、違憲判決があって、今「三ない運動」はなくなっているはずです)
ですから、当時はバイクに乗りたければ盗まなければならない状況にあったのも事実です。
 
また、この詞の中には「校舎の裏煙草をふかして」というのもあります。これも犯罪ですが、20歳未満の喫煙を法律で禁止する理由がありません。喫煙は健康によくないことですから、禁止するなら年齢に関係なく禁止するべきです。
 
世の中には喫煙や運転免許に年齢制限があり、これは当たり前のことと思われていますが、尾崎豊の鋭い感性はこれが若者への差別や抑圧にほかならないことを見抜いていました(若者に選挙権のないことが究極の差別です)
ですから、若者であればこの詞に共感できるのが普通で、バイクを盗むのは犯罪だなどといってこの歌を否定する反応が出てくるほうがおかしいのです。
 
で、そういうおかしな反応をする若者を“プチおとな”と呼んで、普通の若者と区別することにすればいいのではないかと思ったわけです。
 
では、なぜ“プチおとな”が出てきたのかというと、おとながあまりにも若者を抑圧しすぎたからではないかと思います。
最近は反抗期のない子どもがふえたという説がありますが、少なくとも中学高校において教師や親や社会に対して反抗的な態度をとったことがないという若者がふえているのは事実でしょう。私はこれは、高校入試や大学入試で内申書が重視されるようになって教師の権力が強くなったせいではないかと思っています。
 
抑圧がなくなったから反抗もなくなったというのならいいのですが、抑圧が強くなりすぎて反抗が押しつぶされているのなら大問題です。
 
昔の若者のヒーロー、たとえば石原裕次郎、赤木圭一郎、小林旭、浜田光夫などはみな不良を演じていました。「理由なき反抗」のジェームス・ディーンもそうです。
実際のところ、不良になれた若者はそんなに多くありませんでしたが、自分の中に不良への憧れがあることは否定しませんでした。だからこそ銀幕の不良スターに憧れたのです。
 
今の“プチおとな”は、自分の中に不良への憧れがあることまでも否定してしまっているようです。
これは自分で自分の人間性を否定しているのと同じです。
“プチおとな”は見よう見まねでおとなの論理を振り回すことはできますが、自分の中の人間らしい感性を抑圧しているので、創造的な仕事はできないはずです。
 
尾崎豊は「卒業」という曲で「この支配からの卒業」と歌いましたが、“プチおとな”は本来の若者の姿へと「再入学」する必要がありそうです。