ネット上で人気ブロガーのやまもといちろう氏とイケダハヤト氏が対立し、対面での論争が行われたということが「BLOGOS」というサイトで紹介されていましたが、私は2人がどうして対立し、なにについて論争しているのかがわからなかったので、まったく無視していました。
しかし、その後「BLOGOS」に紹介されていたイケダハヤト氏のブログ記事がひじょうにおもしろく、感心しました。ただ、こういうことを書いているからやまもといちろう氏と対立したり、ブログが炎上したりするのかとも思いました。
 
そのブログ記事はこちらです。
 
「たかが挨拶ぐらい、できなくてもいいんじゃない?」
 
イケダハヤト氏の主張は、挨拶は絶対に必要なものではない、それを強要してくる人間は不愉快だ、「挨拶をしろ」という説教には「俺に対して礼儀を忘れるな」という意識が透けて見える、世の中には挨拶が苦手な人もたくさんいる、挨拶ができなくても人間的な価値が落ちるわけではない、というものです。
 
私はこの主張に基本的に共感しますが、この記事に対するコメントの九十何%が反対のものです。
しかし、イケダハヤト氏はそれぐらいでめげる人ではありません。すぐさま次の記事で、自分のメッセージは「挨拶のできないやつは人間的にダメだという偏狭な価値観は捨てるべきだ」というもので、それは間違っているとは思わないし、現に共感してくれる人もいるということを書いておられます。
 
自分がおかしいと思うことは、他の誰かも必ずおかしいと思っている」
 
もっとも、この記事に対するコメント欄も圧倒的に反対の声で埋め尽くされています。
 
イケダハヤト氏の主張はインパクトがあります。これはかつてテレビ番組で高校生が発して大きな反響を呼んだ「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いかけに似ています。
イケダハヤト氏の「なぜ挨拶はそんなにたいせつか」という問いかけに、多くの人が感情的な反応をしてしまっています。コメント欄の反論を読んでも、ほとんどまともなものはありません。
 
とはいえ、イケダハヤト氏も自分の感性に依拠して主張しているだけですから、反対派を論理的に説得することはできません。
そのため、この対立が議論によって深化していくということはないでしょう。
 
もっとも、それは「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いかけに誰も答えられなかったのと同じです。
「なぜ人を殺してはいけないのか」も「挨拶はそんなにたいせつか」もどちらも倫理学の範疇に属する問題ですが、倫理学は学問として機能していないので、こうした問いに答えはありません。マイケル・サンデル教授の教室も、もうみんな気がついているでしょうが、白熱するばっかりで、答えは出てきません。
 
しかし、私には「科学的倫理学」(人間は利己的性質をもとに道徳をつくり出し、道徳を武器に互いに生存闘争をしているという考え方)があるので、ちゃんとした答えが出せます。
ここでは「科学的倫理学」の立場から、挨拶とはなにかについて書いてみましょう。
 
 
挨拶をいちばんたいせつにしている集団はなんでしょうか。
それは間違いなくヤクザです。その次は軍隊です。
ヤクザほど挨拶や礼儀や冠婚葬祭のつきあいをたいせつにする人たちはいません。股旅ものの映画を見ると、「お控えなすって」で始まる挨拶の口上をどれだけ立て板に水で言えるかでヤクザとしてのランクづけがされていたようです。なぜヤクザが挨拶をたいせつにするかというと、彼らが悪人だからです。悪人という表現があいまいなら、彼らは生い立ちからの不幸な人生によって、暴力的であると同時に、人と信頼し合う関係が持てなくなった人たちだと言い換えましょう。ですから、互いに本音でつきあうことができません。本音を隠すために挨拶や礼儀が絶対に欠かせないのです。
 
軍隊においては、最初に敬礼の仕方を徹底的に教えられ、上官への礼を欠くときびしく罰せられます。彼らは悪人ではありませんが、兵隊同士が本音でつきあうと厭戦気分が広がりやすくなり、上官の理不尽な命令に黙って従う気にもならなくなりますから、それを防ぐために厳格な挨拶が求められるのです。
 
つまり挨拶とは、人と人が本音でつきあったり、心の交流をしなくてもいいようにするためのアイテムなのです。
なぜそんなものが必要になるかというと、われわれはみなそれぞれに悪人だからです。
挨拶は「偽善の仮面」ということもできます。ちゃんと挨拶をすれば、とりあえず誰でもいい人のように見えます。
 
挨拶は本能に起源があります。たいていの動物は、相手に敵意がないことを示したり序列を確認したりするための決まった動作や鳴き声を持っています。猫は群れない動物ですが、互いに鼻をくっつける、愛猫家が「鼻キス」と呼ぶ挨拶をします。
ただ、人間の挨拶は本能のレベルをはるかに超えたものになっています。
 
「心のこもった挨拶」などというものはありません。「心のこもった風の挨拶」があるだけです。
挨拶はきちんとすればするほど心から離れていきます。
ですから、子どもや若い人の素朴で稚拙な挨拶には心が感じられることがあります。
 
挨拶は社会生活を営む上で必要なものです。ヤクザ社会で出世するには挨拶が欠かせないように、カタギの社会でも出世するにはそれなりに挨拶が欠かせません。
が、挨拶は「偽善の仮面」ですから、それをかぶることによって素顔が劣化していく可能性があります。仮面があれば、素顔をよくする努力を怠るのが人情です。
 
ところが、多くの人は挨拶を身につけることによって「よい人間」になれると信じています。これはまったくバカバカしい勘違いです。自分が偽善者であることに気づかない人がこういう勘違いをします。
そして、こういう勘違いをしている人は、子どもにむりやり挨拶や礼儀を教えようとします。
たとえば、知人が子どものためにお菓子やオモチャなどの手土産を持って訪ねてきたとき、親は子どもに対して「ありがとうは?」などと言って、感謝の言葉を強要します。しかし、もし子どもがそのお菓子やオモチャをありがたいと思っていないなら、それは嘘をつくように強要していることになります。
そんな愚かなことをするのは、親が知人に対していい顔をしたいからであり、またその知人も子どもが礼を言わないとたいてい不愉快になるからです。つまり悪いおとなが子どもを自分たちの世界に引き込もうとしているのです。
もちろん子どもは嘘をつくよう強要されるのは不愉快です。子どもはそんな「偽善の仮面」なしに子ども同士つきあっていくことができます。
 
つまりおとなの世界の偽善は、子どもの世界と接触するときに摩擦を起こします。この摩擦をおとなはむりやり子どもを制圧することで解消してきたのです。
 
しかし、このときの不快感はどのおとなの記憶にも残っています。
挨拶は苦手だという人が少なからず存在するのも当然です。
 
今回、イケダハヤト氏が挨拶を強要してくる人は不愉快だとブログ記事に書き、それに対して多くの人が感情的に反発したのは、挨拶を強要された子どもとおとなの関係が再現したものだといえるでしょう。もちろんイケダハヤト氏が子どもの側で、多くの人がおとなの側です。
 
イケダハヤト氏は子どもの感性をもとに主張することが多い人なのかと察せられます。そして、そのことが多くの“おとな”の反発を買うのでしょう。
 
これまで文明は、子どもをおとなが制圧することで発展してきました。そのため非人間的な文明になってしまいました。
これからは子どもの感性に基づく主張を実現することで文明を人間的なものにしていかなければなりません。
「おとなの主張」はむしろ社会を悪くするだけです。
その意味でもイケダハヤト氏の主張は大いに意義のあるものだと思います。
 
ところで、われわれおとなにとって挨拶はとりあえず「必要悪」として受け入れるのがいいと思います。
ですから、今後挨拶は縮小する方向に持っていくのが正しいことになります。
子どもに挨拶を強要するのは愚かなことです。むしろおとなが子ども同士のつきあいを見て学ぶことが必要です。