橋下徹大阪市長の暴走が止まりません。今や“一人バンザイ突撃”状態になっています。あとはいつ玉砕の知らせが届くかです。
 
もしかして優秀な政治家になれたかもしれない人物がなぜこんなに愚かな発言を連発するのでしょうか。私が思うに、テレビ、新聞雑誌、それにインターネットなどのメディアがあまりにも右寄りになり、そこでの言説をまに受けてしまったからでしょう。
たとえば「たかじんのそこまで言って委員会」という番組があります。私は東京にいるのでほとんど見ていないのですが、おそらくその番組で従軍慰安婦問題を何度か取り上げているはずです。元レギュラーである橋下氏はそこでの議論を聞いて、それが世界でも通用すると信じ込んでしまったのでしょう。しかし、日本でも通用しない大阪ローカルでの議論が世界で通用するはずがありません。
 
橋下氏は5月27日に外国特派員協会で記者会見する予定だということです。そこで今までと同じようなことを言うと、まったく話がかみ合わないことになってしまいます。
 
私は前回「従軍慰安婦問題の本質」という記事を書きましたが、ネットなどを見ていると、慰安婦問題の基本的なことを知らない人がほとんどであることに気づきました。そういう人に「本質」を論じても伝わらないかもしれないので、今回はもうちょっと基本的なことについて書きたいと思います。
 
慰安婦問題については意見対立が激しいので、証拠の提示が重要になります。その点、軍関係などの公文書をもっとも集めているのが次のサイトです。
 
デジタル記念館「慰安婦問題と女性基金」ご案内
 
読むのが面倒な人のために概略がわかるように抜粋します。
 
慰安所の開設が、日本軍当局の要請によってはじめておこなわれたのは、中国での戦争の過程でのことです。1931年(昭和6年)満州事変のさいの軍の資料をみると、民間の業者が軍隊の駐屯地に将兵相手の店を開くということが行われましたが、慰安婦という言葉はまだなく、軍隊自体の動きは消極的でした。
 翌年第一次上海事変によって戦火が上海に拡大されると、派遣された海軍陸戦隊の部隊は最初の慰安所を上海に開設させました。慰安所の数は、1937年(昭和12年)の日中戦争開始以後、飛躍的に増加します。
 
 陸軍では慰安所を推進したのは派遣軍参謀副長岡村寧次と言われています。
 その動機は、占領地で頻発した中国人女性に対する日本軍人によるレイプ事件によって、中国人の反日感情がさらに強まることを恐れて、防止策をとらねばならないとしたところにありました。また将兵が性病にかかり、兵力が低下することをも防止しようと考えました。中国人の女性との接触から軍の機密がもれることも恐れられました。
 
 
慰安所は、このような当時の派遣軍司令部の判断によって設置されました。設置に当たっては、多くの場合、軍が業者を選定し、依頼をして、日本本国から女性たちを集めさせたようです。業者が依頼を受けて、日本に女性の募集に赴くにあたって、現地の領事館警察署長は国内関係当局に便宜提供を直接求めています。
 
 
昭和13年の初め、日本の各地に赴いた業者は「上海皇軍慰安所」のために3000人の女性を集めると語り、募集してまわりました。各地の警察は無知な婦女子を誘拐するものではないか、皇軍の名誉を傷つけるものではないかと反発しました。それで内務省警保局長はこの年223日付けで通達を出し、慰安婦となる者は内地ですでに「醜業婦」である者で、かつ21歳以上でなければならず、渡航のため親権者の承諾をとるべしと定めました。34日には陸軍省副官も通牒を出しました。
 
 
朝鮮でも、警察が、日本の内地の警察と同じように、軍の依頼を受けた業者の募集を助けるさいに、警保局の19382月通達に従っていたかどうかは不明です。それでも最初の段階では、朝鮮からもまず「醜業婦」であった者が動員されたと考えるのが自然です。ついで、貧しい家の娘に「慰安婦」となるように説得して、連れていったのでしょう。就職詐欺もこの段階からはじまっていることは、証言などから知られています。業者らが甘言を弄し、あるいは畏怖させるなど、本人の意向に反して集めるケースがあったことも確認されています。さらに、官憲等が直接これに加担するケースも見られました。資料によれば、朝鮮からは、内地では禁じられていた21歳以下の女性が多く連れて行かれたことが知られています。中には167歳の少女も含まれていました。一方で、中国の慰安所には、中国人女性もいました。
 
 
米戦時情報局心理作戦班報告書49号より 『資料集成』5巻、203
「この『役務』の性格は明示されなかったが、病院に傷病兵を見舞い、包帯をまいてやり、一般に兵士たちを幸福にしてやることにかかわる仕事だとうけとられた。これらの業者たちがもちいた勧誘の説明は多くの金銭が手に入り、家族の負債を返済する好機だとか、楽な仕事だし、新しい土地シンガポールで新しい生活の見込みがあるなどであった。このような偽りの説明に基づいて、多くの娘たちが海外の仕事に応募し、数百円の前渡し金を受け取った。」
 
 
慰安所はアジア全域に広がりました。昭和17年(1942年)93日の陸軍省恩賞課長の報告では、「将校以下の慰安施設を次の通り作りたり。北支100ヶ、中支140、南支40、南方100、南海10、樺太10、計400ヶ所」とあります。
 
 
つまり軍が主導して慰安婦制度をつくったのです。
買われた(売られた)女性が悲惨な生活を強いられたのはいうまでもありません。
これが国家による人身売買だとして国際社会から非難されているのです。
 
もしこれが日本人の売春婦を集めただけであればおそらく国際的に非難されることはなかったでしょうが、植民地の若い女性の性を収奪するという最悪の植民地支配だということで、国際的な非難を浴びることになりました。
 
これらのことは公文書などの証拠つきなので反論しようがありません。
それまで慰安所は軍と無関係に民間業者が勝手にやっていたことだと言っていた人たちは沈黙を強いられました――といいたいところですが、彼らはひとつだけ反撃のタネを見つけました。
それは、軍や官憲が家に押し入り、むりやり女性を拉致するという「軍や官憲による強制連行」があったという証拠の文書はないということです。
軍や官憲がやらなくても民間業者がやれば同じことですし、「強制連行」でなくても詐欺や強圧による慰安婦集めも同じようなものです。また、元慰安婦の証言は完全に無視するという一方的な論理ですが、それでも一部の人は鬼の首を取ったようにこの点をついてきます。
これは、アウシュビッツにガス室はなかったと主張する人たちに似ています。アウシュビッツにガス室がなければユダヤ人へのホロコーストもなかったことになるかのような奇妙な論理の持ち主です。
 
ともかく、「軍や官憲が強制連行したという(日本側の)証拠の文書はない」ということを理由に河野談話を見直せと主張する人たちがいて、橋下氏も明らかにそれに影響されています。
しかし、もし外国特派員教会の記者会見で「軍や官憲が強制連行したという(日本側の)証拠の文書はない」などと述べれば、外国人記者たちは「それがどうした」という反応をするだけでしょう。彼らは慰安婦問題を、植民地に対する性的な収奪、植民地の女性の人身売買ととらえているからです。
 
 
また、日本では慰安婦問題を「戦場と性」という角度からとらえている人が多くいます。
戦場ではレイプがつきもので、レイプをへらすために慰安婦は必要だったのだという論理です。
 
しかし、日露戦争を考えてみればわかるように、戦場ではいつもレイプがあるわけではありません。
また、国民党軍、共産党軍のように、防衛戦争を戦っている側にもまずレイプはありません。自国で戦っているのですから当たり前です。
侵略する側にしても、ナチスドイツはフランス、ベルギー、オランダなどではきわめて“紳士的”な占領のしかたをしました。そのためすぐに親ドイツのかいらい政権を樹立して容易に統治できました。
しかし、ソ連に侵攻したときは、スターリン体制にうんざりしていたソ連人は最初ドイツ軍を歓迎する動きすら見せたのですが、ドイツ軍は民族的な差別のせいか、虐殺、略奪、レイプを行い、そのためソ連人はスターリンのもとに団結して徹底抗戦することになりました。ソ連軍はドイツに侵攻したとき、今度は自分たちがレイプしまくりましたが、ドイツ人は自分たちが先にやったことなので、非難するわけにもいきません。
 
とにかく、戦場にレイプがつきものだというのは、多分に日中戦争における日本軍を正当化する論理であって、必ずしも国際的な共通理解ではありません。
 
慰安婦問題を「戦場と性」の問題ととらえているのは日本人だけで、世界は「植民地の性的収奪」あるいは「国家による人身売買」ととらえています。橋下氏が「戦場と性」について論じても、外国人記者は「なにを言ってるんだ」ということになると思われます。
 
また、橋下氏はツイッターで「アメリカの日本占領期では日本人女性を活用したのではなかったのか。自国の事を棚に上げて、日本だけを批判するアメリカはアンフェアだ」と発言しましたが、日本軍とアメリカ軍を対等に比較することはアメリカ人にとって言語道断だということになるでしょう。
パリ解放のときに歓声とキスで迎えられたアメリカ軍と、南京攻略のときに民間人を虐殺した日本軍を比較することなどアメリカ人にとってはまったく考えられないことです。それに、日本はジュネーブ条約の捕虜の待遇に関する条約には加盟していないので、その意味でも対等ではありません。
 
ともかく、日本の右翼は世界でまったく通用しない議論をしてきて、メディアも偏っていました。橋下氏はメディアが生んだ政治家で、メディアの中で成長してきましたが、そのためにピエロになってしまいました。