橋下徹大阪市長の「慰安婦制度は必要」発言以来の騒動を見て改めて思ったのは、日本人の人権意識の低さです。
橋下氏は外国人記者の追及をかわすために、“にわか人権屋”に大変身しましたが、それまでは人権を軽視する発言を繰り返していました。それが問題視されるどころか、逆に人気のもとになっていたと思われるぐらいです。
ネットの掲示板やブログなどでも人権を軽視・無視・否定する発言のほうが、人権を重視する発言よりも圧倒的に多いように思われます。
たまに人権重視の発言があると、それは「加害者の人権ばかりが守られて、被害者の人権が守られていないのはけしからん」という発言だったりします。この発言は、被害者の人権を重視しているようですが、実際は被害者はすでに死んでいるので、結局は加害者の人権を否定する発言です。
このように人権を軽視する風潮があるのはおそらく世界でも日本だけではないかと思います。
そのため慰安婦問題でも、韓国はどんどん世界に発信しているのに、日本は世界に対してまったくなにもいえません。
日本人の人権意識があまりに低いので、死刑執行を初めなにかことがあるたびにアムネスティから文句をつけられますし、今回の橋下氏の慰安婦発言については、国連の拷問禁止委員会からも文句をつけられました。
慰安婦問題、国連委が勧告 「日本の政治家が事実否定」
【ジュネーブ=前川浩之】国連の拷問禁止委員会は31日、旧日本軍の慰安婦問題で「日本の政治家や地方の高官が事実を否定し、被害者を傷つけている」とする勧告をまとめた。橋下徹大阪市長らの最近の発言を念頭に置いたものとみられる。日本政府に対し、こうした発言に明確に反論するよう求めている。
(後略)
日本人の人権意識はどうしてこんなにだめになったのでしょうか。
私が思うに、そのひとつの理由は自民党教育の“成果”です。学校で人権のたいせつさが教えられず、逆に子どもはきびしい校則や体罰など人権侵害を体験してしまいます。自分の人権が守られなかった人間が人の人権を守ろうとしなくなるのは当然の帰結です。
それともうひとつの理由は、日本の法務・司法・警察組織が人権を軽視してきたことです。これら組織は死刑制度の存続をはかり、冤罪を生む自白偏重主義を改めようとせず、取り調べの可視化にも反対しています。
そもそも「法の支配」は人権と切っても切り離せないもので、法律の専門家は人権意識が高いはずですが、日本では司法組織が人権を軽視しているので、その影響が広く社会に及んでいます。
自民党も官僚組織も国民の上に君臨するという意識で長く政治・行政を行ってきましたから、国民の人権はむしろ政治・行政のじゃまという感覚なのでしょう。
たとえば、コラムニストの小田嶋隆氏が書いておられたので知ったのですが、自民党の世耕弘成参院議員が生活保護給付水準の見直しに関して「週刊東洋経済」にこんな文章を書いていたということです。
見直しに反対する人の根底にある考え方は、フルスペックの人権をすべて認めてほしいというものだ。つまり生活保護を受給していても、パチンコをやったり、お酒を頻繁に飲みに行くことは個人の自由だという。しかしわれわれは、税金で全額生活を見てもらっている以上、憲法上の権利は保障したうえで、一定の権利の制限があって仕方がないと考える。この根底にある考え方の違いが大きい。
小田嶋氏は人権を「スペック」と見なす思想に驚いておられますが、天賦人権説からすれば、人権の制限を主張する世耕氏は自分を「天」にも匹敵する存在だと思っているのでしょう。
自民党の人権感覚は恐ろしいもので、自民党の憲法改正草案にもそれが出ています。
民主党政権はいろいろ問題がありましたが、少なくとも人権感覚では自民党よりはうんとましだといえます。
そして、これはなによりもたいせつなことです。
安倍政権はこれまで経済再生をうまくやるのではないかということで国民の期待をつないできましたが、株価や長期金利の動きがあやしくなってきました。もし経済再生がうまくいかなかったら、安倍政権のいいところはひとつもないということになります(私の価値観ですが)。
人権思想というのは「思想の中の思想」みたいなものです。もし人権思想がなければ、現代に奴隷制を復活させようという主張が出てきたときに反対することができません。
自民党が「全国統一テストをやって平均点以下の者は奴隷階級にする。愛国者なら国のために奴隷になって働け」といいだしたら、日ごろ人権を蔑視する発言をしている自称愛国者はどうするのでしょうか(現在の非正規雇用もすでに奴隷制に近いものかもしれません)。
ネットで人権を蔑視する発言をしている人たちは、自分は進歩派の欺瞞をあばくというカッコいいことをしていると思っているのかもしれませんが、実際のところは自民党と官僚組織に洗脳されているだけです。
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