「反省だけならサルでもできる」という言葉があります。これはもちろんサル回しのサルが反省のポーズをすることからきていますが、あのサルは反省のポーズをするだけで、反省をしているわけではありません。ですから、正しくは「反省のポーズだけならサルでもできる」というべきです。
「反省だけならサルでもできる」という言葉が広く流布しているのは、「反省」と「反省のポーズ」の区別もできない人が多くいるからと考えられます。世の中の「反省」についての認識はこの程度のものです。
 
それだけに読まれるべき価値があるのが、岡本茂樹著「反省させると犯罪者になります」(新潮新書)です。
 
 
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内容(「BOOK」データベースより)
犯罪者に反省させるな―。「そんなバカな」と思うだろう。しかし、犯罪者に即時に「反省」を求めると、彼らは「世間向けの偽善」ばかりを身に付けてしまう。犯罪者を本当に反省に導くのならば、まずは「被害者の心情を考えさせない」「反省は求めない」「加害者の視点で考えさせる」方が、実はずっと効果的なのである。「厳罰主義」の視点では欠落している「不都合な真実」を、更生の現場の豊富な実例とともに語る。
 
 
 
タイトルには少しむりが感じられます。「反省させると犯罪者になりやすくなります」というふうに読み替えておけばいいでしょう。
 
著者の経歴が少し変わっています。中学・高校で英語教員として勤めたあと、大学院に行って博士課程を修了し、現在は立命館大学産業社会学部教授、臨床教育学博士です。決められたレールの上を歩む人生から、ある時点で自分の判断で歩む人生へと、路線変更したのでしょう。こういう人だから常識にとらわれない発想が出てくるのだと思います。
 
著者は中学・高校で教員をしていたとき、「生徒指導」の仕事もしていました。たとえば生徒が飲酒、喫煙、万引きなどの問題行動を起こしたとき、停学などの処分をしますが、その間に生徒に反省文を書かせます。その反省文がちゃんと書けていれば、処分を解除します。そうしたことなどが「生徒指導」です。
反省文を書かせるというやり方は、全国どこの学校でも行われているそうです。そういえば、前ワタミ会長の渡辺美樹氏が理事長を務める郁文館夢学園で生徒に原稿用紙100枚の反省文を書かせていて、そのため退学者が相次いでいるというニュースもありました。
 
反省させる方法として、ロールレタリングというものもあります。これは、架空の形で「自分から相手へ」「相手から自分へ」の手紙を書いて、往復書簡を繰り返すうちに自分自身の内面を見つめたり、他者を理解しようとしたりする心理技法で、今ではすべての少年院で行われているそうです。
これはもともと少年院で法務教官を務めていた和田英隆という人が、義母が引き受けを拒否したことがきっかけで荒れ始めた少年に対して、原稿用紙を渡して「自分の思っていることを母親に対して書いてみなさい」といったところ、少年は母親に対する不満や怒りを思い切り書いてきて、そして落ち着きを取り戻したということがあったそうです。それをきっかけに和田らが研究してつくりだした技法です。
ですから、もともとは心の中の不満や怒りを吐き出すことの要素が大きかったのですが、今はもっぱら「被害者の立場」に立って反省させることが主眼となって、形骸化してしまっていると著者はいいます。
 
企業ではなにか失敗や不祥事を起こした者が始末書を書かされることがあります。始末書は反省文と同じようなものでしょう。日本には反省文を書かせるという文化があるのかもしれません。
 
著者は現在、刑務所において受刑者の更生プログラムを実践しています。その経験からも著者は「犯罪者に反省させてはいけない」という信念を強めます。
 
私も基本的に著者の考えと同じです。ですから、私が本書の内容を紹介すると、自分の考えが入り混じってしまうおそれがあるので、本書の重要と思われる部分を書き写しておきます。
 
 
重大な犯罪が起きたとき、新聞やテレビのニュースで、「まだ容疑者は反省の言葉を述べていません」「残虐な事件を起こしておきながら、まったく反省している様子はありません」といった言葉をよく耳にします。こうした報道を聞くと「あんなひどいことをしたのに、反省していないなんて、なんてひどい奴だ」「絶対に許せない」と怒りを覚えたことのある人は多いのではないでしょうか。
しかし、これまで述べてきたように、自分が起こした問題行動が明るみに出たときに最初に思うことは、反省ではありません。事件の発覚直後に反省すること自体が、人間の心理として不自然なのです。もし、容疑者が反省の言葉を述べたとしたら、疑わないといけません。多くの場合、自分の罪を軽くしたいという意識が働いているか、ただ上辺だけの表面的な「反省の言葉」を述べているにすぎません。そのように考えると、犯罪を起こした直後に「反省の言葉」を繰り返す犯人(容疑者)は、反省の言葉を述べない犯人よりも、「より悪質」という見方ができます。
 
受刑者は、例外なく、不遇な環境のなかで育っています。親からの虐待、両親の離婚、いじめの経験、貧困など、例を挙げればキリがありません。受刑者は、親(あるいは養育者)から「大切にされた経験」がほとんどありません。そういう意味では、彼らは確かに加害者ではありますが、「被害者」の側面も有しているのです。被害者だからと言って、人を殺したり覚醒剤に手を染めたりすることはけっして許されることではありません。しかし支援する立場になれば、加害者である受刑者の、心のなかにうっ積している「被害者性」に目を向けないといけません。このことが分かれば、最初から受刑者に被害者のことを考えさせる方法は、彼らの心のなかにある否定的感情に蓋をしてさらに抑圧を強めさせることになるのは明らかです。したがって、まずは「加害者の視点」から始めればいいのです。そうすることによって、「被害者の視点」にスムーズに移行できます。受刑者が「被害者の視点」を取り入れられる条件は、「加害者の視点」から始めることと言えます。
 
自己理解が得られれば、受刑者は自分の心の奥底に否定的感情があることに気づきます。彼らが真の「反省」に向かうためには、自分の心の奥底にあった否定的感情を吐き出す必要があります。否定的感情を吐き出すことは、受刑者にとって、とても苦しい作業となります。本来ならば、今さらみたくもない過去の自分の「心の痛み」と直面するわけですから、できるのなら避けて通りたいものです。しかし、ここを乗り越えない限り、他者の「心の痛み」にまで思いが至りません。そこで支援者の支えが必要となります。自分を支えてくれる支援者がいることによって、受刑者は自分の内面の問題と向き合う勇気を持てるのです。受刑者が自分の否定的感情を吐き出して自分の心の痛みを理解すると、自分自身が殺めてしまった被害者の心の痛みを心底から感じるようになります。ここにおいて、ようやく受刑者は、真の「反省」のスタート地点に立てるのです。
 
 
著者はさらに、「しつけ」の問題を指摘します。これについては、第4章の見出しを列記することにします。
 
第4章 頑張る「しつけ」が犯罪者をつくる
りっぱなしつけが生き辛さを生む
「しつけ」がいじめの一因に
「尾木ママ方式」ではいじめを減らせない
いじめ防止教育は「いじめたくなる心理」から始める
「強い子にしよう」というしつけ
早く「大人」にしようとすると危ない
「ありのままの自分」でいてはいけないというメッセージ
「しっかりした親」の問題
 
 
私は前に、今の社会は犯罪者を刑務所に送り込む「入口政策」にばかり関心が向いて、刑務所を出た犯罪者を更生させる「出口政策」がおろそかにされているということを書いたことがあります(「少年犯罪の厳罰化を逆にすると」)
 
著者は「出口政策」において正しい認識を示しておられる数少ない人の一人です。
正しい認識というのはつまり、犯罪者はきわめて不幸な人生を歩み、多くの場合幼児虐待の被害者で、その心のケアをしなければ更生できないということです。
 
この認識を示しておられるのはほかに、多くの死刑囚との面談などをしている長谷川博一氏などがおられます。
 
神戸児童連続殺傷事件の犯人「酒鬼薔薇」を更生させるために、医療少年院において、犯人の少年は親の愛情を感じていなかったとして「育て直し」が行われたということですが、これも同じ認識によるものでしょう。
 
また、「レ・ミゼラブル」なども、犯罪者を更生させるのは厳罰ではなく寛容な心に触れることであるという認識をもとにした物語で、それゆえに感動があります。
 
とはいえ、こうした正しい認識は、天動説が信じられている世の中での地動説みたいなもので、なかなか世の中に受け入れられません。
 
そうした中で、著者の岡本茂樹氏は受刑者の更生プログラムの実践経験を通して主張しておられるので、説得力があります。
できれば、著者の更生プログラムを受けた受刑者の再犯率と、ほかの更生プログラムを受けた受刑者の再犯率と、なんの更生プログラムも受けなかった受刑者の再犯率がデータとして提示されるとより説得力があるのですが、今の段階ではそこまでいっていないようです。
 
人間は本能的に、自分に害のありそうなものは遠ざけたい、消し去りたいと思います。
ですから、不潔なゴミは遠くに捨てたり、川に流したり、土に埋めたりしてきましたし、工場のばい煙は高い煙突で遠くに飛ばしてきました。しかし、地球環境が問題になると、ゴミはできる限り捨てるのではなくリサイクルするものになりました。
 
しかし、人間はいまだ犯罪者に対しては、本能のままに遠ざけたい、消し去りたいと思って、刑期を長くし、死刑をふやそうとしています(とくに日本はそうです)
 
ゴミはリサイクルするのに、なぜ犯罪者をリサイクルしようと思わないのでしょうか。
 
犯罪者をゴミにたとえるとはけしからんといわれそうですが、ほんとうにけしからんのは犯罪者をゴミ以下の扱いにしていることです。
犯罪者も自分と同じ人間であるということが当たり前の認識になってほしいものです。
 
 
ところで、一週間余りブログの更新をしませんでしたが、これは海外旅行(マレーシア)に行っていたためです。
以前は、海外旅行に行くのでしばらく更新はしないと予告していましたが、これは空き巣に狙われる可能性があるということなので、今回は事後のお知らせとしました。ご了承ください。