福島第1原発所長として原発事故処理に当たった吉田昌郎氏が亡くなられました。事故がなんとか収束したのは、吉田氏以下現場で命懸けの作業に奮闘されたみなさんのおかげです。ご冥福を祈るとともに、改めて感謝したいと思います。
 
吉田氏の働きを賞賛するのはいいのですが、なんか的外れなほめ方をする人もいて気になります。
たとえば、報道ステーションに出演したジャーナリストの門田隆将氏は、吉田氏にインタビューして「死の淵を見た男」というノンフィクションを書いた人ですが、「国のため」とか「大義」だか「本義」だかという言葉を使って吉田氏をたたえていました。
 
門田氏のブログを見ると、「『本義に生きた』吉田昌郎さんの死」というタイトルの文章を書いています。
「本義」とはなにかというと、このようなことです。
 
海水注入を中止しろ、という官邸と東電本店の両方からの命令を無視し、敢然と海水注入をつづけ、原子炉の冷却を維持するという「本義」を忘れなかった吉田さんの存在に、私は今も東京に住み続けている一人として、心から感謝している。
 
海水を注入して原子炉の冷却を維持するというのは、「正しい対策」というべきで、「本義」などという大げさな言葉を使うところではありません。
 
人が命懸けの行動をするときには、「国のため」とか「本義」といった言葉がふさわしいという考えがあるのかもしれませんが、それは違うと私は思います。
 
吉田氏自身は、インタビューでこのように語ったことがあるそうです。
 
「ここで働いているほとんどの人が福島、浜通りの人。
 彼らも避難民で家族が避難している。
 浜通りを何とかしたい気持は、作業員みんなが持っている。」
 
つまり身近な、具体的な人を思い浮かべて、「その人たちのため」と思うことで命懸けの行動が可能になったと思うのです。
普通の人間は、「国のため」とか「本義」とか「大義」という抽象的なことのために命を懸けることはできません。
 
特攻隊員は「お国のため」や「天皇陛下のため」に死んでいったことになっていますが、本人の心の中では、「自分が敵航空母艦を沈めたら、その分日本人の命を救うことができる」というように、具体的に命を救うことを思い描いて自分の死を納得させていたと思います。
 
 
私は、どんな凶悪な犯罪者も非難しないという思想を持っています。自分と同じ人間と見なしているからです。
したがって、どんなすばらしいことをした人も、実は賞賛しません。自分と同じ人間と見なしているからです。
 
多くの人は、決死の作業をした人をほめたたえますが、私の考えでは、実はそれほど特別なことではありません。
たとえば、チェルノブイリの事故のときも多くの作業員が命懸けの作業をしましたし、ソ連のK―19という原子力潜水艦が原子炉の事故を起こしたとき、8人の決死隊が作業をし、8人全員が被曝により死亡するということもありました。
原子炉の事故は深刻化すると多数の人が死に、環境も汚染され、いわば全人類に影響しますから、その分作業員も必死になるのです。
ですから、福島第1で吉田氏以下の作業員が命懸けの作業をしたのも、いわば当たり前のことです。
 
こういうと、吉田氏や多くの作業員をおとしめているように思われるかもしれませんが、そうではなく、人間は誰でも本来そういう素晴らしさを持っているものだといいたいわけです。
 
これは進化生物学からも説明できます。
「私は2人の兄弟か8人の従兄弟のためなら死ねる」といった生物学者がいますが、もともと人間は、自分の生存と同時に子孫の繁栄のために行動しており、子孫の繁栄のために自分の命を犠牲にしても不思議ではないのです。
 
これは当たり前のことだと思うのですが、多くの人はまったく逆のことを考えています。
つまり、人間は放っておくとわがままになるので、道徳教育によって奉仕や自己犠牲の精神を教えなければならないというのです。
いや、こんなことを考えているのは一部の愚かな政治家ぐらいかもしれませんが。
 
逆のことといえば、本店の命令を無視して海水注入を続けた吉田氏の判断への評価もそうです。
あのとき海水注入を続けないと、原子炉の爆発で周辺への影響はもちろん自分たちの命すら危ない状況だったのですから、誰でもそうしたでしょう。それを「本義」などといってほめたたえるのはバカげています。
それよりも、自己保身のために官邸の意向を忖度したり、海水注入による経済的損失を計算したりして海水注入中止を命令した東電本店の愚かさを批判するべきです。
 
批判するべきを批判せず、その代わりにほめるべきでないものをほめるという一種の逆転現象が起きています。
 
原子炉事故という過酷な状況において、直面している吉田氏以下の作業員は人類のために正しい判断をし、離れたところにいる東電本店やジャーナリストは自分のために都合のいい判断をする。
これも人間のひとつの姿です。