試写会で宮崎駿監督の「風立ちぬ」を見ました。
おもしろかったし、見てよかったと思いました。しかし、物足りなさも感じました。試写会では上映終了と同時に拍手が起きましたが(7月13日、よみうりホール)、私自身は拍手しませんでした。
 
ゼロ戦を設計した堀越二郎という実在の人物の人生に、堀辰雄の「風立ちぬ」というフィクションのラブロマンスを合体させた、異色のつくりの物語です。
タイトルは、ポール・ヴァレリーの詩を堀辰雄が訳した「風立ちぬ、いざ生きめやも」からきています。「いざ生きめやも」は「生きねばならない」という訳もあります。自身も肺結核を病んでいた堀辰雄の、生きるのが困難な中でも生きていこうという意志の表現かと思います。
 
この物語も、生きるのが困難な時代を背景にしています。映画が始まってすぐに関東大震災が起きます。震災からの復興と、不況の中で、堀越二郎は飛行機の設計技師として仕事を始めますが、日本は完成した試作機を飛行場に運ぶのに牛で引っ張るという後進国です。ゾルゲらしい人物が出てきて、日本の未来について不吉な予言をします。
 
とはいえ、そうした時代背景についての説明はほとんどなく、映像で示されるだけです。当時の暮らしなどが丁寧に描かれ、それを見るだけでもおもしろさがあります。
 
実在の人物の物語ではありますが、夢のシーンが頻出します。夢の中で堀越二郎は飛行機に乗って空を飛び、尊敬するイタリア人設計技師と何度も会話をします。そのため半ばファンタジーのような印象があります。
 
夢のシーンで出てくる飛行機は、「風の谷のナウシカ」やその他の作品で出てきたものに似ています。それを見ると、宮崎監督はずっと同じ夢を追いかけてきたのだということがわかります。
 
宮崎監督は飛行機や空を飛ぶことに異様なこだわりを持っていて、航空オタクないしは飛行オタクであるといえます。マンガ・アニメオタクであることももちろんです。
その宮崎監督が堀越二郎に自分を重ね合わせたのはある意味当然です。堀越二郎は飛行機が好きですが、自分はパイロットではなく、ただ飛行機の設計をするだけです。ひたすらケント紙に図を描くことは、宮崎監督がマンガを描くことに共通するでしょう。
 
ですから、この映画は宮崎監督のオタク趣味全開の“宮崎駿ワールド”になっています。
そのため、悪い表現では「自己満足」になりかねないところがあります。
もっとも、今や国民的アニメ作家の宮崎監督ですから、自己満足に走ったからといって誰も非難しないでしょう。
私自身、今回の「風立ちぬ」もそうですが、宮崎監督の作品であれば無条件で見にいきます。
 
ただ、この作品については、十分におもしろかったとはいえ、なにか物足りなさを感じたのも事実です。
いつもの宮崎作品にある感動がこの作品にはなかった気がするのです。
ヤフーレビューを見ても、同様の感想が多数あります。
 
その理由はなんなのかについて考えると、結局、堀越二郎が設計したのはゼロ戦だということに行き着きます。
堀越二郎は、よい飛行機をつくりたいという純粋な思いで、恋人や家族や周りの人たちにささえられ、困難を乗り越えて、その夢を実現します。普通、主人公が困難を乗り越えて夢を実現すると、観客は感動するものですが、ゼロ戦となると話は違います。
ゼロ戦は名機とされますが、そのためにかえって戦争が悲惨さを増したということが考えられます。もしゼロ戦がポンコツ機だったら、日本はもっと早く戦争に負けて、被害が少なかったかもしれません。
そのため素直には感動できないのです。
原爆をつくった科学者の物語があったとして、それに感動できないのに似ています。
 
もし堀越二郎が素晴らしい旅客機をつくり、そのために多くの人が安価に飛行機旅行を楽しめるようになったとすれば、観客は堀越二郎の夢の実現に素直に感動することができたでしょう。
 
堀越二郎は実在の人物ですから、そんなストーリーにするわけにはいきません。
だったら、「ライト兄弟物語」でもよかったはずです。ライト兄弟は子どものころから機械が大好きで、そんな重いものが空を飛ぶはずがないと周りからバカにされながらも、動力飛行を成功させます。そのおかげで今日の航空機の発達があるわけですから、「ライト兄弟物語」は、ジブリらしく子どもも楽しめる、十分感動的な物語になったはずです。
 
しかし、宮崎監督は堀越二郎に思い入れがあって、ライト兄弟に思い入れはないでしょうから、やはりそうはいきません。
 
宮崎監督の思い入れがある分、いい作品になっていることも事実です。
宮崎ファンは、よくも悪くも“宮崎駿ワールド”として受け入れるしかありません。