松江市の教育委員会が中沢啓治のマンガ「はだしのゲン」を図書室の「閉架」に移動させ、子どもが自由に閲覧できないよう要請していたことに対して議論が巻き起こっています。
その議論の中に「子どもの知る権利の侵害だ」という声があるのは画期的なことです。子どもを「権利の主体」と見なすのは、子どもの権利条約の精神でもあります。子どもを「権利の主体」と見なせば、たいていの教育問題も解決の方向が見えてくるはずです。
 
ところで、松江市の教育委員会が「はだしのゲン」の閲覧制限をしたのは、原爆による残酷シーンがあるためだと思っている人が多いのではないかと思いますが、それは誤解です。毎日新聞の社説によると、閲覧制限のいきさつはこのようなものでした。
 
市教委がこのような判断をしたきっかけは、松江市議会に昨年8月、1人の市民から「誤った歴史認識を子供に植え付ける」と学校の図書室から撤去を求める陳情があったことだ。市議会は、過激な部分がある一方で、平和教育の参考書になっているとの意見があり、陳情を不採択にした。だが、独自に検討した市教委は「旧日本軍がアジアの人々の首を切るなど過激なシーンがある」として小中学生が自由に持ち出して読むのは適切ではないと判断した。
 
1人の市民の陳情によって動かされたというのも妙な話ですが、要は旧日本軍が残虐なことをするシーンがあるからだめだということなのです。
旧日本軍は残虐なことをまったくしなかったから事実に反するという考えなのか、たとえ事実でも描いてはいけないという考えなのかわかりませんが、いずれにしてもおかしな考えです。
しかし、こうしたおかしな考えの人が少なからずいることは事実です。
 
私が問題だと思うのは、こうしたおかしな考えに名前がついていないことです。
私たちは名前がついていないものはなかなか認識することができませんし、それについて考えたり批判することもできません。
ですから、ここで名前をつけたいと思います。
 
たとえば次の新聞記事の中に、名づけるヒントがあります。
 
「教科書法」自民が検討 南京事件など念頭「学説未確定の事項は確定的に記述しない」
 自民党の「教科書検定の在り方特別部会」は25日、検定の見直しに向けた「中間まとめ」を安倍晋三首相(自民党総裁)に提出した。南京事件などを念頭に「近現代史で学説が未確定の事項は確定的に記述しない」としている。「教科書法」(仮称)の制定を視野に検討を続けるという。
 
 部会は4月以降に6回開催。主な教科書出版会社3社の社長や編集責任者らから、南京事件や慰安婦問題の記述の根拠を聴き取るなどして検討を続けてきた。中間まとめでは、現行の教科書について「自虐史観に強くとらわれるなど教育基本法の趣旨に沿っているのか疑問を感じるものがある」「領土問題で我が国の主張が十分に記述されていない」と指摘した。
(後略)
 
この中に「自虐史観」という言葉があります。「自虐史観」を批判する人たちの頭の中には別の史観があるはずです。それはどのような史観でしょうか。
 
もともと「自虐史観」ということをいいだしたのは、「新しい歴史教科書をつくる会」をつくった藤岡信勝氏だと思われます。
藤岡信勝氏はもとは共産党系の教育学者ですが、ソ連・東欧圏の崩壊で思想転向し、これまでのマルクス主義史観あるいは唯物史観を捨てて、「自由主義史観」を提唱しました。
「自由主義史観」の立場からすると、旧日本軍が残虐行為をしたなどという考えは「自虐史観」ということになるわけです。
 
しかし、最近は「自由主義史観」という言葉は使われなくなりました。もともとマルクス主義史観ないし唯物史観に対してつくられた言葉ですから、マルクス主義史観や唯物史観という言葉が使われなくなるとともに「自由主義史観」という言葉も使われなくなったのだと思われます。
そして、その結果、「自虐史観」という言葉だけあって、「自虐史観」を批判する側の人たちの史観には名前がないというおかしなことになってしまいました。
 
このようになったのは、「自虐史観」という言葉で批判される側の人たちの思想的怠慢でもあります。批判されたら、反論しなければなりませんが、そのときに相手の考えに名前をつけるという当たり前のことをしなかったのですから。
 
では、「自虐史観」を批判する人たちの頭の中の史観に名前をつけるとすれば、なにがいいでしょうか。
それは「自尊史観」しかないと思います。
 
「反自虐史観」では名づけたことになりませんし、「愛国史観」では「自虐史観」と対比できません。
 
「自分の考えは『自尊史観』ではない」と主張する人もいるでしょうが、「自虐史観」と批判される人たちも「自分の考えは『自虐史観』ではない」と考えているので、それはどちらも同じです。
「自尊史観」というネーミングには悪意が込められていないので、拒否する理由もないはずです。
 
「自虐史観」と「自尊史観」という言葉を対比させると、正しい史観というものがおのずと見えてきます。
 
自国の悪いところばかりを並べる「自虐史観」もいけないし、自国のいいところばかりを並べる「自尊史観」もいけない。よいところも悪いところもありのままに見つめる史観こそ正しいということがわかるはずです。
 
自民党の「教科書検定の在り方特別部会」の人たちや「はだしのゲン」を批判する人たちは、「自虐史観」と同じように「自尊史観」もいけないということに気づくべきです。