インターネットは集団で個人を攻撃するときに威力を発揮するツールのようです。
「ネットのバカ」(中川淳一郎著)という本を読んでいたら、中国の「時計兄貴」の話が書いてありました。交通事故の現場でニヤニヤと笑っていた役人が妙に立派な時計をたくさん持っていると指摘する声が出て、ネットユーザーがみんなでこの役人が登場する写真を確認していくと、毎回高級な腕時計をしていることがわかり、そのため「時計兄貴」というあだ名がつき、12億円もの不正蓄財をしていることもわかって、その役人は更迭されたそうです。
「交通事故現場で不謹慎な笑顔」「高級な腕時計」というネットユーザーが食いつきやすいアイテムがあったからでもありますが、ネットが「社会正義」を実現した一例ということです。
 
しかし、こうした例はまれでしょう。とくに日本では集団で弱者を攻撃するという場合がほとんどのように思われます。
 
お笑い芸人の母親が生活保護を受給していた問題では、税金のむだ使いを追及するという点で多少は「正義」の要素がありましたが、最近のバイト店員炎上事件では、追及するほうに「正義」の要素はほとんどありません。
多くの人は、フェイスブックやツイッターを仲間内でやりとりするツールとして使っているはずです。そういうところに入り込んで、仲間に受けようとした写真を勝手に多数の人の目にさらすのは、むしろネットマナー違反、ネチケット違反ではないでしょうか。
 
ただのバイト店員を個人攻撃しても世の中がよくなるものでもなく、これは学校にあるイジメと同じようなものです。
 
とはいえ、こうしたことを多くの人が行っているのは事実です。なぜこうなるのかという理由はいくつもあると思いますが、そのひとつに学校教育の問題があるはずです。
学校ではどうでもいい細かい校則で子どもを縛りつけています。そうした中で育った人間は、他人が常識やルールから逸脱するのを見ると攻撃したくなります。
 
学校は昔から子どもを縛りつけてきたのではないかと思われるかもしれませんが、そうではありません。いや、学校や教師は子どもを縛りつけようとしてきたのですが、子どもの側が違いました。
 
たとえば、夏目漱石の「坊っちゃん」を見てみましょう。「坊っちゃん」は漱石自身が若いころ旧制松山中学に赴任した経験に基づく小説とされていますから、ここには当時の中学校の実態がかなり反映されているはずです。
 
「坊っちゃん」に出てくる中学生(今の中学1年生から高校2年生までに当たる)は、今の中学生、高校生とかなり違います。
 
坊っちゃんが赴任して最初の授業の日のことです。2時間目の最後に、一人の生徒が「ちょっとこの問題を解釈をしておくれんかな、もし」と、できそうもない幾何の問題を持って迫ってきたので(坊っちゃんは数学の教師)、「この次教えてやる」と急いで引き揚げたら、生徒たちは「わあ」とはやし立て、「出来ん出来ん」という声が聞こえてきます。
 
ある日、そば屋で天ぷらそばを食べ、翌日教室に入ると、黒板いっぱいの大きな字で「天麩羅先生」と書いてあり、みんな坊っちゃんの顔を見て「わあ」と笑います。「天麩羅を食っちゃ可笑しいか」と言うと、生徒の一人が「しかし四杯は過ぎるぞな、もし」と言うので、「四杯食おうが五杯食おうがおれの銭でおれが食うのに文句があるもんか」と言い返します。そして、次の教室に行くと、黒板に今度は「一つ天麩羅四杯なり。但し笑うべからず」と書いてあるので、「こんないたずらが面白いか、卑怯な冗談だ」と言うと、「自分がした事を笑われて怒るのが卑怯じゃろうがな、もし」と言い返す生徒がいます。そして、次の教室に行くと、「天麩羅を食うと減らず口が利きたくなるものなり」と書いてあります。
 
それから4日後に、団子屋で団子を食うと、黒板に「団子二皿七銭」と書いてあります。また、人のいない温泉で泳いでいると、温泉場に「湯の中で泳ぐべからず」と張り紙をされ、教室に行くと、例のごとく黒板に「湯の中で泳ぐべからず」と書いてあります。
つまり生徒たちは坊っちゃんに関する情報をインターネットさながらに素早く共有して、ことあるごとに坊っちゃんをからかってくるのです。
 
そして、宿直の日に布団の中に五、六十匹のイナゴを入れられ、大騒動になります。
夜中に寄宿生を集めて、「なんでバッタなんか、おれの床の中へ入れた」と言うと、「そりゃ、イナゴぞな、もし」とやり込められます。
そのあとのやり取りはこんな具合です。
 
「イナゴでもバッタでも、何でおれの床の中へ入れたんだ。おれがいつ、バッタを入れてくれと頼んだ」
 「誰も入れやせんがな」
 「入れないものが、どうして床の中に居るんだ」
 「イナゴは温い所が好きじゃけれ、大方一人でおはいりたのじゃあろ」
 「馬鹿あ云え。バッタが一人でおはいりになるなんて――バッタにおはいりになられてたまるもんか。――さあなぜこんないたずらをしたか、云え」
 「云えてて、入れんものを説明しようがないがな」
 
(引用は「青空文庫」の「坊っちゃん」から)
 
生徒を相手にむきになる坊っちゃんのキャラクターもおもしろいのですが、生徒も相手が教師だからといってぜんぜん負けていません。
 
明治時代の学校というと、教師は威厳をもってきびしく生徒を指導し、生徒も教師を敬っていたというイメージがあるかもしれませんが、実際はぜんぜん違います。
そもそも江戸時代の寺子屋は、先生にとって子どもは月謝を払ってくれるお客さんですから、きびしい指導なんかできるはずがなく、子どもたちは遊びながら学んでいたのです。
明治になって近代学校ができたからといって、そんなに急に変わるはずがありません。
 
「『学歴エリート』は暴走する」(安富歩著)という本によると、学校で教師がきびしく生徒を指導するようになったのは、軍国主義の影響です。それまでの普通の体操が「兵式体操」中心に転換し、1925(大正14)の「陸軍現役将校学校配属令」によって教育現場に軍人が入ってきて、学校の雰囲気が変わるのです(現在の「竹刀を持った体育教師」のイメージは当時学校に入ってきた下士官からきているそうです)
 
こうした軍国主義的学校は、戦後民主主義の時代でかなり変わったはずです。石坂洋次郎の小説「青い山脈」などがその時代の雰囲気を伝えています。
 
しかし、それからの長い自民党政権によって、また軍国主義的学校に戻ってきたというのが私の考えです。
とくに内申書重視と推薦入学制度の普及で、生徒が教師に反抗できなくなったのが決定的だと思います。
 
今の学校で、生徒が先生の布団にイナゴを入れるような「悪ふざけ」ができるとは思えません。もしやったら生徒はひどくつらい立場に立たされてしまうでしょう。
そして、そういう学校で育った者たちが、バイト店員が冷蔵庫に入るなどの「悪ふざけ」を見つけては炎上させているというわけです。
 
教師が生徒を上から指導しようとするのは、今も昔も同じです。しかし、昔の生徒は教師をバカにして、心の中でその指導をはね返していたのです。そのため、生徒は自尊心や自己肯定感を維持することができました。
今の生徒は教師の指導に押しつぶされています。
 
「坊っちゃん」の学校では、生徒たちは坊っちゃんをからかうことでストレス解消ができていたので、生徒同士のイジメもほとんどなかったのではないでしょうか。
 
イヴァン・イリイチという思想家は、学校の価値観で社会がおおわれることを「学校化社会」と名づけました。
たまには「坊っちゃん」を読み返して、今の社会がいかに異常な「学校化社会」になっているかを考えてみるのもいいかもしれません。