宮崎駿監督が長編アニメーションからの引退を表明しました。
残念ではありますが、72歳という年齢では仕方がないのかなという思いもあります。
 
考えてみれば、宮崎作品があるとないとでは、私の人生はかなり色合いの違うものになっていたでしょう。宮崎作品は私にとってそれぐらい大きな存在です。
 
「風の谷のナウシカ」は封切り当時、劇場で7回観ました。最後は新橋のガード下の小さな映画館まで行きました。テレビでも3回ぐらい観たでしょうか。
 
宮崎作品は日本テレビで繰り返し放映されて高い視聴率を稼いでいますから、みんな繰り返し観ているのでしょう。
 
繰り返し観られる映画というのはめったにあるものではありません。それだけでも宮崎監督の偉大さがわかります。
 
私にとって「ナウシカ」は別格として、あと「天空の城ラピュタ」と「となりのトトロ」と「魔女の宅急便」の評価が高いです。
興行的には「もののけ姫」からぐんとアップし、「千と千尋の神隠し」で頂点に達しますが、私としてはあまり評価していません。
作家としての名声は年とともに上がっていきますが、もっとも重要な作品は若いころの作品であるというのは、作家としての宿命みたいなものです。
 
とはいえ、最後の作品となった「風立ちぬ」もかなりの水準に達しており、いろいろなことを考えさせられました。
私は「風立ちぬ」の映画評をすでに書いています。
 
「風立ちぬ」映画評
 
ただ、これを書いたあと、考え直すことがありました。
 
このブログにときどきコメントをくださる小春日和さんが「風立ちぬ」の感想をご自身のブログに書かれたので、それに対して私もコメントを書いたのですが、その中にこういう部分があります。
 
「震災、戦争、結核という死のイメージの中で物語を進行させるというのが宮崎監督の狙いだと私は思いました」
 
これはそのときの思いつきを書いたのですが、そのあともう少し考えがまとまったので、それを書いてみたいと思います。
 
 
私たちの発想はどうしてもステレオタイプになります。戦争と平和、国家と個人、生と死といった図式で考えてしまいがちです。しかし、宮崎監督は、空を飛ぶことが大好きな人なのです。
ですから、この映画は「空と地上」という図式でとらえるとうまくいくのではないかと思いました。
 
地上には震災、戦争、結核、死があり、一方、空には夢、希望、平和、生があるというのがこの映画の基本図式です。
映画の冒頭で震災が描かれるのも、この図式を明確にするためです。
空の場面はつねに明るい色調で、地上の場面は多くは暗い色調で、コントラストがはっきりしています。
 
堀越二郎の設計する飛行機は、地上と空をつなぐはずのものです。
また、丘の上でイーゼルを立てて絵を描いている菜穂子、ベランダで紙飛行機を受け止める菜穂子は、堀越二郎にとって空につながる存在です。
 
これまでの宮崎作品にこのような図式はありません。それは当然で、これまでの宮崎作品はすべてファンタジーだったからです。
この作品は、現実をベースとした物語で、ファンタジー的な要素はすべて主人公が眠っているときに見る夢の中に押し込められています。しかし、その夢の中の部分がかなり大きく、しかも印象的なため、まるで夢と現実、空と地上の二重構造のように見えるのです。
 
それでも、この作品はあくまでファンタジーではなく現実をベースにした物語で、「空を飛ぶことを夢見た男」を描いたものです。
もちろん「空を飛ぶことを夢見た男」は堀越二郎であると同時に宮崎駿でもあります。
 
そして、「空を飛ぶことを夢見た男」は最後にどうなったかというと、自分のつくった飛行機はすべて地上に醜い残骸をさらします。戦争を止めるナウシカは現実の世界には現れません(それに、たぶん菜穂子は死んでしまっています)
つまり現実の前に「空を飛ぶことを夢見た男」の夢は破れたのです。
 
ここで私が思い出したのは、樹村みのりという少女マンガ家の「贈り物」という作品です。
子どもたちが山で遊んでいると、ホームレスのおじさんがやってきて、いっしょに遊ぶようになります。おじさんは子どもたちに「きみたちがほんとうに真理をのぞみ生きるなら世界は天国みたいに美しくなるんだよ」などと、哲学的で、夢のあることを語り、子どもたちはおじさんを尊敬するようになります。とはいえ、子どもたちはおじさんが食べ物をあさったり、おとなたちからさげすまれていることも知っています。やがておじさんは「天国への切符」を君たちに贈るからねと言い残して、その土地を去っていきます。子どもたちが期待して指定された場所を掘ると、そこにあったのは、「きっぷ」と書かれた、ただのガラス片でした。
そして、子どもたちは理解します。あの人が残したのは、「天国への切符」ではなく、「夢を抱いたままこの世界につなぎとめられて生きねばならないことへの切符」だったと。
 
私がこの作品で忘れられないのは、「夢を抱いたままこの世界につなぎとめられて生きねばならないこと」というフレーズです。
そして、このフレーズは、「風立ちぬ」のテーマを表現しているのではないでしょうか。
 
ちなみに、樹村みのりには「翼のない鳥」という、空を飛ぶ夢を持った少年の人生遍歴を描いた作品もあります。
 
また、ユーミンと並び立つ歌姫、中島みゆきも「この空を飛べたら」や「かもめはかもめ」など、空を飛ぶ夢を繰り返し歌っています。
宮崎監督はテーマ曲をユーミンではなく中島みゆきにするべきではなかったでしょうか――というのはもちろん私の勝手な意見です。
 
樹村みのりも中島みゆきも、現実の世界に立って、「空を飛べない悲しみ」を描いています。
しかし、宮崎監督はずっとファンタジーで「空を飛べる喜び」を描いてきました。
似ているようで、両者の立ち位置は違います。
 
しかし、「風立ちぬ」はファンタジーではなく、現実の物語です。となると、「空を飛べない悲しみ」をより深く描かなければならないはずです。
しかし、地上の飛行機の残骸シーンはごく短い時間しか描かれず、しかも唐突に出てくる印象があります。
そして、すぐに空を飛ぶシーンになってしまいます(ここで初めてゼロ戦が登場します。作中で堀越二郎が設計していた、主翼の折れ曲がった飛行機は九試単座戦闘機です)
 
宮崎監督はファンタジー体質が強すぎて、現実の世界の「空を飛べない悲しみ」を深く描くよりも、「空を飛べる喜び」を描くことに傾いてしまったのです。
 
私は「『風立ちぬ』映画評」において、「戦争と平和」という図式でとらえて、堀越二郎のつくったのが戦争の道具だったから感動が薄いのではないかと書きました。そういう面もあると思いますが、「空と地上」「ファンタジーと現実」という図式でとらえて、現実の「空を飛べない悲しみ」の描き方が浅いから感動が薄いと見なしたほうがより正しいような気がします。
 
 
宮崎監督は引退会見において、「子どもたちに、この世は生きるに値するんだと伝えるのが仕事の根幹になければならないと思ってやってきた」と語りました。
私が「この世は生きるに値するんだ」と学んだのが宮崎駿、樹村みのり、中島みゆきの3人なので、この3人をまとめて論じてしまいました。