みのもんた氏の次男(31)が窃盗未遂容疑で逮捕され、みのもんた氏はTBS系の情報番組「みのもんたの朝ズバッ!」の出演を自粛すると発表しましたが、これについて論争が起きています。
みのもんた氏の次男が実際に犯罪行為をしたのかは今の時点でわかりませんし、みのもんた氏はほかに女子アナへのセクハラ疑惑もあって、問題は複雑です。ただ、今論争の的になっているのは、親は31歳にもなった子ども(あるいは20歳以上の子ども)の行為に責任があるのか、ということです。
 
ちょうど「週刊現代」10月5日号が「大論争 みのもんたは責任を負うべきか、否か」という記事を掲載していて、何人もの有識者の意見が紹介されていますが、ほとんどの人は親に責任はないという意見です。「大論争」という記事のタイトルに引かれて読んだ人は肩透かしを食います。
とはいえ、世の中にはみのもんた氏をバッシングする意見が多いので、世の中では「大論争」が起きているのも事実です。
 
ただ、みのもんた氏は芸能人であり、かつ報道番組の司会者でもあるので、その点は「親は20歳以上の子どもの行為に責任を負うべきか」という一般的な問題と分けて論じなければなりません。
たとえば、三田佳子さんの次男が覚せい剤取締法違反で逮捕されるということがありましたが、そのときに、みのもんた氏は三田佳子さんの「親の責任」を追及したかもしれません。また、ほかの出来事でも、芸能人の道義的責任を追及したかもしれません。だとすると、みのもんた氏が今回責任を追及されてもしかたがないということになります。
 
ですから、みのもんた氏も「みのもんたの朝ズバッ!」(及び「みのもんたのサタデーずばッと」)の出演を自粛すると発表したのです。ほかのバラエティ番組などは自粛しないということです。
 
つまり、みのもんた氏は報道番組出演を自粛したこと以外、なにも責任を取っていないのです。そして、そのことを批判する人は、「週刊現代」の記事もそうであったように、ほとんどいません。
 
では、世の中で「大論争」が起こっているように見えるのはどういうことかというと、例によってネットでの匿名の批判と週刊誌による暴露報道が盛り上がっているからです。みのもんた氏の次男の過去の行状とか、テレビ局にコネ入社だったとか、みのもんた氏の高収入とか豪遊ぶりとか、セクハラ疑惑とか、批判のネタにはこと欠きません。
しかし、有識者などはほとんどが「親は20歳以上の子どもの行為に責任はない」という意見のようです。
 
「親は20歳以上の子どもの行為に責任はない」というのは社会通念です。
ということは、逆にいえば「親は20歳未満の子どもの行為に責任がある」ということになるはずですが、実際そうなっているでしょうか。
 
子どもが野球をしていて、ボールがどこかの家の窓ガラスを割った場合、子どもに賠償能力がないので、親が代わりに賠償することになります。これは常識です。
また、小学校5年生の起こした自転車事故で被害女性が今もいわゆる植物状態となっているケースで、神戸地裁は7月4日、少年の母親に対して9500万円の損害賠償を命じる判決を下して、話題となりました。これも子どもの行為の責任を親が負った(負わされた)例です。
 
しかし、これらはいわゆる民事です。
刑事については、親に責任が負わされることはありません。
 
子どもが万引きをした場合、親がその店に謝罪して弁償するということはありますが、親の刑事責任が問われているわけではありません。
 
近年、少年の起こした犯罪は厳罰化傾向にありますが、20歳未満の少年の犯した罪が懲役10年に匹敵するとなれば、親が少年の代わりに10年服役することになるはずです。少なくとも民事ではそういう論理で判決が出ています。
あるいは子どもと親が5年ずつ服役するということがあってもいいはずですが、もちろんそんな話は聞いたことがありません。
 
光市母子殺害事件では、犯行当時19歳だった少年について、被害者遺族の本村洋氏がマスコミで大いに語ったこともあって世論は厳罰を要求し、最高裁で死刑判決が確定しました。しかし、このとき少年の親の責任を問う声はありませんでした。母親はすでに自殺していましたが、父親は少年を小さいころから虐待していたのです。
 
(これについて私は「光市母子殺人事件・死刑囚の真実」という記事を書いています)
 
20歳未満の少年が犯罪をした場合、親は免責され、少年だけが刑務所や少年院に入れられ、ときには死刑になるというのが現実です。
 
つまり、親が子どもの行為の責任を取るのは、20歳未満の子どもの場合で、しかも民事など限られた部分だけです。子どもが20歳以上になれば、親はいっさい免責されます。
 
これは“バカ親天国”というべきでしょう。子どもがたとえ殺人者になっても親は罪を問われないので、バカ親のやりたい放題です。
 
もっとも、これに対しては、「子どもは親と別人格なのだから親の責任が問われないのは当然」という反論があるでしょう。
確かに親と子は別人格ですが、親は子どもを立派な人格の人間にするべく教育・しつけをしてきたはずです。その結果、立派な人格にならなかったら、その責任は誰にあるのでしょうか。
当然、子どもではなく親にあるはずです。
これは「教育責任」という言葉で表すことができるでしょう。
 
親が子どもに、規則や法律を守る、人に迷惑をかけないといったことを教育し、その結果、子どもが規則や法律を破り、人に迷惑をかけるおとなになったら、親の「教育責任」が問われることになります。
 
「教育責任」は、子どもが20歳以上になればなくなるというものではありません。むしろ逆で、子どもがおとなになったときに生じるものです。子どもが小さいうちは、「まだ教育の途中ですから」という言い訳が通用します。
 
日本では1995年に「製造物責任法」が施行され、製造物の欠陥によって損害が生じた場合は製造者の責任が問われることになりました。
しかし、「教育責任法」はいまだ存在しないので、親は子どもを思いやりのある人間にしたい、人に迷惑をかけない人間にしたい、東大に入れたい、音楽家にしたい、医者にしたい、巨人の星にしたいなどと好き勝手に教育目標を掲げて教育し、その結果、ろくでもない人間になったり、犯罪者になったりしても、「親と子どもは別人格。20歳すぎれば親に責任はない」という言い訳が通用して、いっさい責任は問われません。
 
これはどう考えてもおかしな理屈ですが、有識者も誰もこのことを指摘しません。
なぜかというと、有識者もたいてい親であり、かつ社会的ステータスもみのもんた氏に近く、自分の責任が問われるようなことにはしたくないからです。
 
「教育責任」ということを考えた場合、みのもんた氏は子どもの教育をしてきたでしょうから、当然責任を問われることになります(氏の次男が犯罪行為をするようなだめな人間であるということが前提ですが)
そして、どのように教育してきたかということが明らかになれば、世の親にとって他山の石となるでしょう。
 
 
子どもがおとなになっても親の「教育責任」が問われるという考え方に納得のいかない人もいるでしょう。
というか、誰でも自分の子どもの行為であっても、自分の責任は追及されたくないでしょう。
だったら、子どもを教育しなければいいのです。
もちろん、子どもが生きていくために必要な知識などは教えなければなりませんが、子どもの人格、性格、人間性には触れなければいいのです。
そうしたら、「親と子どもは別人格」と主張することができますし、子どもがどんな人間になっても、かりに犯罪者になっても、親に責任はないことになります。
実に簡単な理屈です。
 
そもそも、落ち着きのある子にしたいとか、強い子にしたいとか、嘘をつかない子にしたいとか、勉強には意欲的で遊びには意欲的でない子にしたいとかいうのはすべて親の邪心や利己心であって、子どもの人格形成のさまたげです。どんな子であれそのまま受け入れるのが親の愛というものです。