NHKの朝ドラ「あまちゃん」が好評のうちに終了しました。このブログもその人気に便乗しようと、「あまちゃん」を取り上げてみました。
といっても、「あまちゃん」そのものを論じるというよりも、朝日新聞の「あまちゃん」論を批判することが主目的ですが。
 
9月11日の朝日新聞に、「あまちゃん」人気を分析した「日常輝くクドカン流 現実を肯定、脇役も魅力的に」と題する記事が載っていました。
実は、私はまったく「あまちゃん」を見ていないのですが、それでも宮藤官九郎氏の作品については多少の知識があります。この分析には首をかしげてしまいました。
 
 
日常輝くクドカン流 現実を肯定、脇役も魅力的に
  【江戸川夏樹】NHK連続テレビ小説「あまちゃん」が毎日のように話題に上る。脚本は、放送前には先鋭的で朝ドラに適さないともいわれた宮藤官九郎(くどうかんくろう)。なぜ誰もが魅入られるのか。
 
 あまちゃんは、東京生まれのアキの物語。祖母・夏の住む北三陸(モデルは岩手県久慈市)を舞台にしている。
 
 朝ドラの定番といえば女一代記だ。「おしん」や最近の「カーネーション」「梅ちゃん先生」などはいずれも、主人公が夢をかなえるまでの人生を追った作品だった。
 
 一方、あまちゃんが描くのは高校時代とその後の数年間。アキの目標は周りの人々の影響を受け次々と変わる。東北に移り住んだ時は祖母に憧れ海女を、その後は母や親友に憧れアイドルを目指す。
 
 身近なヒロイン像を通じて宮藤が描く世界観は、「徹底的に現実を肯定することの大切さ」だ。
 
 田舎が嫌で飛び出したやつって東京行ってもダメよね。逆にさ、田舎が好きな人って、東京行ったら行ったで案外うまくやれんのよ、きっと。結局、場所じゃなくて人なんじゃないかと思う
 
 アキの母親・春子のセリフだ。地元や周りの人々に目を向けなかった自分への後悔がにじむ。自分が嫌った母・夏を「かっけ~」と尊敬するアキにふれ、考えを変えていく。過疎化の波を受け入れていた北三陸の人々も、海やローカル線のかけがえのなさに気づき、町おこしを始める。
 
 おらが東京さ行って芸能界とかこの目で見て、いろいろ経験して、でも結局ここが一番いい
 
 なぜ帰ってきたか説明するアキの言葉に、「ここではないどこか」をめざし続けたユイも、地元で出来ることを探す道を決意する。
 
 現実を肯定するドラマは意外に少ない。最近放送されているドラマの多くのテーマは現状打破だ。視聴率30%を超えたドラマ「半沢直樹」は、癒着がはびこる銀行で、無理難題ばかりの現実を理知と突破力で変えていく。
 
 そんな中、異彩を放つ宮藤作品の根幹を「今いる場所をむげにしない。今を振り切って後を振り返らない人は、描かない」と語るのは、TBSの磯山晶(あき)プロデューサーだ。宮藤と組んで「木更津キャッツアイ」など話題作を世に送り出してきた。
 
 「木更津」の余命半年を宣告された主人公は21歳になるまで木更津(千葉県)から出たことがない。都会に憧れ、地元に文句を言いつつも、最期まで地元で仲間たちと日常を送ることを選ぶ。磯山さんは「主役だけを中心にせず、脇役も魅力的に。新天地に行くときの別れは特に丁寧に描く。現実に無駄なことはないと伝えている」と説明する。
 
 なぜ、現実の肯定が人の心に刺さるのか。東日本大震災後に売れた本の一つ、仏哲学者アランの『幸福論』には、「自分の仕事や友達、書物を利用しないことを赤面すべきだ。価値のある物事に関心を持たないことは誤りにちがいない」と書かれている。
 
 明治大の合田正人教授(西洋思想史)は、あまちゃんには幸福論と同じ「肯定の思想」があると指摘する。「肯定とは現実におのずと変革を促す力。いろいろ失敗し、あれやこれや気に病む登場人物はアキと出会い、違う見方をするようになる。悲劇だと思っていたものが喜劇やユーモアに見えてくる」という。
 
 自分は多様な他者でできているとアランは考える。「うまくいかない原因だと見捨ててきたものが、自分の資源だったと気づく幸福の過程を描いているのではないか」
 
 ヒットしたテレビ番組や雑誌、商品を引用するのも宮藤作品の特徴だ。あまちゃんにも、「ザ・ベストテン」をほうふつさせる歌番組やアイドルの総選挙が登場する。磯山さんは「それでなければ時代を説明できない不可欠な小道具」と分析する。流行したものこそ、「今」を成立させるものだからだ。
 
 
この記事は「現実の肯定」をキーワードに「あまちゃん」の魅力を説明していますが、私は「現実の肯定」という言葉は違うだろうと思いました。
 
その後、朝日新聞は「『じぇじぇ』ヒットの秘密 宮藤官九郎に聞く哲学と手法」と題する宮藤官九郎氏へのインタビュー記事を掲載しましたが、これにも「現実の肯定」ということが再三出てきます。
インタビュアーの言葉だけを抜き出してみます。
 
 
――最高視聴率42・2%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)の「半沢直樹」や、一匹おおかみのフリーランスの医者が活躍する「ドクターX」など最近のドラマの多くは現状打破がテーマ。一方、宮藤さんの作品には悪人がいないし、今いる場所を大切に描いている。ほかのドラマと比べて、現実を肯定しているように見えます。
 
――家族や自然、地元など自分の周りにある現実を肯定することが今の世の中にどういう意味があって、どう幸せに結びつくと思いますか。
 
――宮藤さんがそっちを向いているということは、現実を肯定している人って少ないということでしょうか。
 
 
インタビュアーはどうしても「あまちゃん」は「現実肯定」の物語だとしてしまいたいようです。
 
感動する物語というのは、根底に愛や命や人間の肯定があるものですが、それと「現実の肯定」とは違います。
人間を肯定するということは、非人間的な現実と葛藤するということであって、この葛藤が物語の推進力になります。
「現実の肯定」というと、あらゆるものを肯定してしまうことになりますし、「向上しない」とか「改革しない」といったマイナスの意味も含んでしまいます。
 
宮藤官九郎氏自身は、「現実の肯定」ということは言っていません。むしろ「人間の肯定」ということを言っていると思います。
たとえばこんな具合です。
 
 
 人間のいいところばかりを見せるドラマをやりたくないし、人間のちょっとしたミスや弱いところを攻撃するようなドラマも見たくない。いいところも悪いところも「面白い」という言葉で全部一緒にしちゃえ。いいところも悪いところもおもしろいからいいじゃんっていう肯定の仕方。
 
あまちゃんは26週もあったので、要点だけをつまんで話を作らなくてよかった。寄り道がいっぱいできて、1人の人間を多面的に描けた気がする。そういう方法が自分は一番好きだし、自分が一番出る方法。 基本にあるのは、弱いところも、だめなところも、悪いところもひっくるめて面白いということで人間はできているんじゃないかと。
 
 
さらに引用すると、「現実の否定」みたいなことも言っています。
 
 
今回は東北を舞台にしているからといって、震災を描くドラマではない。震災に対するみなさんの憤りとか、その後の社会に対する怒りは現実。僕の場合は、それが作るときの原動力にはなっていない。その後の世界をどう受け止めているかというか、登場人物たちが相変わらず、スナックでくだらないことを言っている。というのが面白くないですか?と思っていますね。
 
 
ともかく、「現実の肯定」という大ざっぱな言葉で「あまちゃん」のおもしろさを説明しようとするのは所詮むりというものです。
 
では、朝日新聞記者はなぜ「あまちゃん」のおもしろさをうまく説明できないのかというと、おそらく宮藤官九郎氏の価値観と朝日新聞記者の価値観が水と油だからでしょう。
 
宮藤官九郎氏が最初に注目されたのは、「木更津キャッツアイ」と「池袋ウエストゲートパーク」の脚本家としてではないかと思いますが、どちらのドラマも、地元に生きるヤンキー、つまり不良たちの物語です。
 
実際の学校は複雑ですが、学園ドラマというのは単純化して描かれ、生徒は優等生と不良に分けられます。優等生は勉強ができて、よい学歴を身につけ、将来は官僚になったり、グローバルに活躍するビジネスマンになったり、ときには新聞記者になったりします。不良は勉強ができないので、学校では評価されないのですが、その分仲間とのつながりをよりどころにし、将来は地元で就職します。
実際のところは、優等生でもないし不良でもないという中間層がいます。中間層をより詳しく見ると、優等生になりたくても成績が優等でないので優等生になれない者と、不良になりたくても行動力がないために不良になれない者とに分けられるでしょう。この中からネットでヘイトスピーチをする者が生まれます。私はこれを“引きこもり系の不良”と呼んでいます。
 
宮藤官九郎氏の価値観は不良寄りであって、学歴主義の否定(宮藤氏は日大芸術学部中退)と地元主義があると思います。
地元主義というのは東京中心主義の否定でもあります。
ですから、学歴エリートで東京中心主義の朝日新聞記者の価値観とは水と油になるわけです。
また、学歴エリートはアイドルや流行歌などの大衆芸能にも否定的です。
 
「あまちゃん」の主人公は不良ではありませんが、東京の高校にはなじんでいませんし、海女になったり、東京でアイドルを目指したりする生き方は不良に近いものです。
そして、最終的に東京でアイドルになるのではなく、地元でご当地アイドルになります。
 
地元主義というのは、地元の人間関係をたいせつにするということでもあります。
学歴主義の生き方をすると、地元から切り離され、会社を定年になると、なんの人間関係もないということになりかねません。
 
朝日新聞の記者は、大衆芸能の価値や、地元の人間関係の中で幸せに生きていくという生き方を受け入れることができず、「現実の肯定」というわけのわからない言葉で説明しようとしたのではないでしょうか。