10月1日、横浜市内の踏切で会社員の村田奈津恵さんが線路上に倒れていた男性を助けようとして、男性は助けたものの自身は脱出が遅れて亡くなるという事故がありました。これについて、亡くなった村田奈津恵さんを賞賛する声が多く聞かれ、神奈川県、神奈川県警、横浜市がそれぞれ感謝状を贈呈し、政府は紅綬褒章を授与するとともに安倍首相の名前で感謝状を贈ることを決めました。それを発表した菅義偉官房長官は「他人にあまり関心を払わない風潮の中で、自らの生命の危険を顧みずに救出に当たった行為を国民とともに胸に刻みたい」と語りました。
 
自己犠牲になった人がやたら賞賛されるのはいつものことですが、その中で地元の神奈川新聞が比較的中庸な報道をしているのが目につきました。
 
JR横浜線踏切事故:学ぶべきものは/神奈川
 
その記事から一部を引用します。
 
■まず非常ボタン
 ある鉄道会社の男性社員は危惧を抱く。「今回の行動が正義なのだということになれば、同じような事故が起こる可能性もあるのでは」
 
 鉄道各社は「人の立ち入りを見つけたら、非常ボタンを押してほしい」と口をそろえる。「社員であってもまずは電車を止めるための行動を取る。『どうして助けないんだ』と思うかもしれないが」。電車を止め、あるいは少しでも速度を落とすことで衝突によるダメージを減らすことができるからだ。
 
 線路内にいる人を助けようとするより、非常ボタンを押す方が早くできる。だが、男性は「今はそういうことを口にすれば、ひどい人と言われそうなタイミング。美談としてエスカレートしていくのが怖い」とも感じる。「『線路に入らないで』とは言えても『人を助けないで』とは言えない。危険だから助けに入ることは絶対に禁止、と伝えていくしかない」
 
直接助けるよりまず非常ボタンを押すというのは、確かに重要なことです。この機会にそのことの周知をはかるべきだと思いますが、現実は自己犠牲の賞賛ばかりになっている気がします。
 
しかも、的はずれな賞賛をしている記事もあります。
 
勇気をありがとう 踏切事故で亡くなった村田さんの死悼む献花続々
 
この記事にはこんな声が紹介されています。
 
 現場近くの高校3年の女子生徒(17)は「身近でこのようなことがあったので駆けつけました。自分だったらこのような行動はできないと思います」と、友人とともに合掌。
 
仕事で奈津恵さんと顔を合わせていた不動産業の男性(57)は、「おとなしそうな彼女がそういう行動に出たのは驚きました。内に秘めた正義感があったのでしょう」と語った。
 
どうやらこの人たちは、村田奈津恵さんはみずからの死を覚悟して救助の行動をしたと思っているようです。
確かに村田奈津恵さんには、倒れている人の命を救いたいという強い気持ちがあったでしょう。しかし、見ず知らずの他人のために自分の命を捨てようという気持ちがあったとは思えません。というか、誰にもそんな気持ちはないでしょう。
村田奈津恵さんが亡くなったのは、自分が想定したよりも電車のスピードが速かったか、逃げようとしたときに足がもつれるなどしたためでしょう。あくまで結果的に亡くなったと見るべきです。
 
踏切で倒れていた男性が助かったのは(鎖骨骨折などの重傷で入院中)、もちろん村田奈津恵さんの働きによるのでしょうが、へたをすると2人とも亡くなっていた可能性があります。
 
たとえば山岳遭難の救助活動の場合、悪天候の中で救助活動をするのは二次遭難になる恐れがあるので、冷静な判断が求められます。村田奈津恵さんの場合は、二次遭難に至ってしまったわけで、判断ミスといわざるをえません。最初の遭難者を助けたからといって、判断ミスに変わりはありません。
 
村田奈津恵さんのケースを「人の命を救うために自分の命を犠牲にした」と見なすのは、間違った解釈です。
 
もっともこれは「美しい誤解」だからいいのではないかという人がいるかもしれませんが、そうとは限りません。
というのは、助かった男性にとっては、「美しい誤解」はかえって精神的な負担になるからです。
それに、この「美しい誤解」は、遭難救助のあり方をゆがめてしまう恐れがあります。つまり、自分を犠牲にして人を助けることが賞賛されると、二次遭難を恐れずに救助活動をするべきだということになりかねません。
 
同様の誤解は、9.11テロで多数の消防士が亡くなったときにもありました。ビルの崩落が予見されなかったために消防士は亡くなったのですが、それがまるで英雄的な自己犠牲とされたのです。
 
それに、「美しい誤解」をする人の心は決して美しくないことが考えられます。
というのは、「他人の自己犠牲は自分の利益」だからです。
他人の自己犠牲を賞賛して、ほかの人もどんどん自己犠牲をしてくれると自分の利益になる――そういう下心がないとはいえません。
 
 
ここで、改めて村田奈津恵さんのケースを振り返ってみると、線路の上に人が倒れているのを見たとき、冷淡に見過ごす人もいるでしょうから、すかさず救助の行動に出たのは、確かに賞賛するべきことだと思います。
このとき、非常ボタンを押すという判断ができなかったのも責められません。とっさに目の前の人を助ける行動をするのも自然だからです。
 
もちろんこのとき、助けることが可能だという判断があったはずです。間に合わないと思えば、助けようとするわけがないからです。
 
しかし、いざやってみると、意外と倒れている人の体が重くて、動かせなかったのでしょう。平らなところなら女性の力でも引きずれたでしょうが、レールがじゃまになったと思われます(倒れた人はレールの間にいたことで助かったようです)
 
思うように倒れた人を動かせず、電車が迫ってきたとき、自分だけ逃げればよかったのですが、そうできなかったのもわかります。いったん助けようとした人が亡くなると、最初から手を出さなかった場合より罪の意識が重くなるからです。また、目の前で人が轢かれる悲惨な光景が目に浮かぶと、ますます諦められません。そのため逃げ遅れたのではないかと想像されます。
 
私はもしかして同様のケースに出くわした場合、同じ行動を取ってしまうかもしれないので、人ごととは思えません。
私に限らず、助けられそうな状況であればたいていの人は助けようとするはずです。
ですから、このような場合はまず非常ボタンを押すべきだということと、いったん救助の行動を起こしても、救助に夢中になることなく、自分の身の安全をはかる冷静さを忘れてはいけないということを教訓とするべきでしょう。