五輪招致プレゼンでの「おもてなし」以来、日本人に果たして「おもてなし」の心があるのかということが話題になっています。
デパートの店員などのていねいな「おもてなし」は商業的なものです。一般の人々が外国人に対して親切にするかというと、疑問があります。
いや、そもそも日本人は互いに親切にしているのかということにも疑問があります。最近はやたらギスギスしている場面が目立つような気がします。
 
その典型が都会の電車の中でしょう。
ベビーカーが迷惑だ、携帯で話すな、化粧をするな、飲食をするな、若者が席を譲らないなど苦情はいっぱい聞きますが、親切にされたという話はあまり聞きません。
 
たとえば、電車の席を年寄り、妊婦、体の不自由な人にちゃんと譲っているかという問題があります。
外国では若者は年寄りに普通に席を譲るが、日本の若者はそうではないとよく言われます。
私は義理の母といっしょにイギリスとカナダに旅行したことがありますが、そのときは向こうの人は母に対してわりと気楽に、ここに座れと声をかけてくると感じました。
もっとも、これは事例が少なすぎて比較にはならないかもしれません。
 
外国と日本を比較するのは、相当に幅広い見識を持っていないとできないことで、私にはむりですが、ただひとつ言えるのは、日本では若者が年寄りなどに席を譲らないと言って批判する声はいっぱい聞くのに、その割りに若者が年寄りなどに席を譲る場面を見ることは少ないということです。
若者が席を譲らないから批判する声が多いのか、若者を批判する声が多いから若者は席を譲らないのか、どちらかということになりますが、それについて考えるのにちょうどいい材料が今日の朝日新聞の「声」という読者投書欄に載っていました。
 
 
(声)優先席を若者が占領する国とは
 大学研究補助員 (氏名略 女性)(千葉県 62)
 
 来月出産を迎える娘と都心へ出るため電車に乗った。ラッシュを避けた時間帯だったが車内は混んでいて、突き出したおなかを抱えた娘は優先席の前に立った。優先席に座るのは談笑する若い男性たちと化粧をする女性。その後、そのうちの1席が空いたが、耳にイヤホンをした若い男性がするりと座り、娘は最後まで立ちっぱなしだった。
 
 東京での五輪開催が決まった際、「おもてなし」の心を売り込んだのが決め手だったという人もいる。しかし、優先席を若者が占領している光景が珍しくない日本って、なんだかおかしい。おもてなしとは、おいしいものを提供したり、愛想をよくしたりすることだけではないだろう。弱いものをかばい、いたわる優しさがおもてなしの原点だ。
 
 座る若者たちに「あなたたち、具合が悪いの」と聞こうと思ったが、娘に「そんなことして何かあったらどうするの」と言われた。私はそれもそうかなと思う一方、悲しくなった。
 
 弱者に対するいたわりの心を育む雰囲気が共有できるような社会でありたい。人が勝ち組、負け組などと区別されるつらい時代だが、いたわりや心遣いを教えるのは私たち大人の責任でもあるのかもしれない、と思った。
 
 
座っている若者に「あなたたち、具合が悪いの」と聞くのはイヤミな言い方ですから、やめたほうがいいでしょうが、それを別にすれば、この投書にけっこう共感する人がいるのではないでしょうか。
しかし、私は一読して、疑問を感じました。この投書子は、自分の娘に対していたわりや心遣いはないのだろうかと。
 
来月に出産を控える娘を立たせたままではしのびないと思うなら、座っている若者に「娘に席を譲ってもらえませんか」と声をかければいいのです。
この場合、若者が反発して席を譲らないと困りますから、イヤミな言い方ではなく、できる限りやんわりと、丁寧に頼んだほうがいいのはもちろんです。
 
若者に席を譲るよう頼むのは、妊婦(娘)に対するいたわりの気持ちの表れです。 
投書子は、「いたわりや心遣いを教えるのは私たち大人の責任でもあるのかもしれない、と思った」と書いていますが、そのときがまさに教えるチャンスで、それを逃してほかに教えるチャンスがあるとは思えません。
 
実名で投書しておられる方を批判するのは本意ではないので、少しフォローしておきますが、実際のところは、娘さんは立っていることがそれほど苦痛ではなく、かなり余裕があったのでしょう。だから、若者に娘を座らせてくれと頼むことをしなかったのだと思います。
 
ただ、身重の娘と、優先席に座って談笑する若者を目の前にしたとき、これはまさに「若者たちの間違った行いを指摘するチャンスだ」と思って、その状況を書いて投書したのでしょう。
 
私が思うに、日本には若者が席を譲る文化はあまりなくて、若者が席を譲らないことを批判する文化はいっぱいあるのです。投書子はその文化に染まってしまったわけです。
 
普通は、若者は年寄りに席を譲るべきだと主張する人は、年寄りに対する思いやりがあって主張しているのだと思われるかもしれませんが、そうとは限りません。「年寄りに席を譲る心」と、「年寄りに席を譲らないことを批判する心」は、まったく別物で、一致するときもあれば一致しないときもあります。
これは、「殺人事件で亡くなった人を悼む人の心」と、「殺人犯を死刑にしろと主張する人の心」が違うみたいなものです。
 
日本では、老人、妊婦、体の不自由な人に席を譲ることは若者の務めのように言われていますが、これもおかしなことです。若者に限らず、30代、40代、50代の人でも席を譲ればいいのです。
また、老人に席を譲るべきだともよく言われますが、この言い方では、老人と老人でない人との線引きが明確ではありませんから、実際の場面になると困ります。老人だと思って席を譲ると、老人扱いされたということで気分を害する人もいます。
 
つまり、「若者」とか「老人」というカテゴリーで論じているのが間違いなのです。
「立っているのがつらい人」に「立っているのが平気な人」が席を譲るというのが正しいあり方です。
この場合、「立っているのがつらそうな人」を見分けることが必要になりますが、若い人がこうした見分ける能力を鍛えると、恋人や配偶者に対していたわりを示すのにも役立ちます(というか、人生全般に役立つ)
 
「立っているのがつらそうな人」ということでは、もちろん子どもも含まれます。小さな子どもが長時間立っているのはつらいことですから、元気なおとなが席を譲るのは当然です。
 
考えてみれば、ロンドンの地下鉄で義理の母親にここに座るようにと声をかけてくる人がいたのは、義理の母親が旅の疲れでつらそうにしていたからでしょう。年寄りであれば誰にでも声をかけていたわけではないと思います。
 
日本でよく「若者は年寄りに席を譲るべきだ」と言われるのは、長幼の序といった儒教的な意識からくるものか、若者を非正規雇用に追いやるような若者への差別意識からくるものであって、決して年寄りや体の弱い人へのいたわりの気持ちからではないと私は思っています。
「若者は年寄りに席を譲るべきだ」といった主張の欺瞞性に気づくことが、これから日本人が「おもてなし」の心を育んでいくための第一歩ではないでしょうか。