アベノミクスで経済の一部は少しよくなりつつあるかもしれませんが、日本全体としては沈滞したままで、とりわけ若者に元気がないと思います。こういう日本の状況を、たまたま2ちゃんねるで見かけた中国系の新聞が的確に指摘していました。
 
 
日本の「失われた20年」、下流社会化と精神の低迷―米華字メディア
配信日時:20131013 750
 
20131010日、米華字メディア・多維新聞は記事「日本、『下流社会』の20年」を掲載した。
 
「失われた20年」についてはさまざまな説がある。ただし「失われた」という言葉を日本経済の衰退ととるのは正しい解釈ではないだろう。1991年から2009年の経済成長率は平均08%。ほぼ停滞状態にあり、「生きても死んでもいない」というのが正確な表現だ。「失われた」という言葉の意味は、日本の精神が道を見失っているというのが本当のところだろう。
 
2005年出版の三浦展「下流社会」は、日本の若い世代が次々と下流社会に転落していると評した。問題は単に収入が低いことだけではない。コミュニケーション能力、生活能力、仕事や学習、さらには消費の意欲が低いという特徴がある。つまり人生全般に対する熱意が失われているのだ。
 
未来に期待が持てないなか、日本人は自信と活力を失っている。社会には閉塞感があふれ、息苦しい状態が続き、上を目指そうとする精神は雲散霧消した。国全体が方向を見失っているようだ。「一億総中流」「最も成功した社会主義国」との言葉で評されてきた日本の平等な社会が崩壊していく。これこそが「失われた20年」の意味だ。(翻訳・編集/KT
 
 
要するに三浦展氏の著書「下流社会」に依拠しているだけなのですが、「問題は単に収入が低いことだけではない。コミュニケーション能力、生活能力、仕事や学習、さらには消費の意欲が低いという特徴がある。つまり人生全般に対する熱意が失われているのだ」という指摘は、当たっているといわざるをえません。
 
ただ、なぜ若者はそうなったのかについての指摘はありません。
世の中にも共通認識はないのではないでしょうか。
非正規雇用で低収入のために元気が出ない若者はいるでしょうが、雇用環境のせいだけとも考えられません。
 
最近の若者に元気がないのは教育のせいだというのが私の考えです。
たとえば、子どもが道路や公園で遊んでいても、「うるさい」と苦情が出るので、親は子どもに「静かにしなさい」といってしつけます。そういう子どもが元気なおとなになるわけがありません。
また、日本の学校にはイジメが相当多数あるようです。それは学校の中にいると強いストレスがかかっているということです。そういう学校の中で育って、元気になるわけがありません。元気になるのは、人をイジメるときだけです。まさに「やられたらやり返す。二倍返しだ!」というわけで、ヘイトスピーチやら、バイト店員のツイッターを炎上させたりするときはやたら元気です。
 
ですから、教育改革がたいせつになってきますが、日本は教育改革の方向が根本的に間違っています。
たとえば、国公立大学の2次試験で、ペーパーテストを原則廃止し、面接など「人物重視」にするという報道があって、議論を呼んでいます。
 
 
大学入試:国公立大、2次の学力試験廃止 人物重視、面接や論文に−−教育再生会議検討
毎日新聞 20131011日 東京朝刊
 
 政府の教育再生実行会議(座長、鎌田薫・早稲田大総長)が、国公立大入試の2次試験から「1点刻みで採点する教科型ペーパー試験」を原則廃止する方向で検討することが分かった。同会議の大学入試改革原案では、1次試験で大学入試センター試験を基にした新テストを創設。結果を点数グループでランク分けして学力水準の目安とする考えだ。2次試験からペーパー試験を廃し、面接など「人物評価」を重視することで、各大学に抜本的な入試改革を強く促す狙いがある。実行する大学には補助金などで財政支援する方針だ。【福田隆、三木陽介】
 
 同会議のメンバーである下村博文文部科学相が、毎日新聞の単独インタビューで明らかにした。
 
 同会議は「知識偏重」と批判される現在の入試を見直し、センター試験を衣替えした複数回受験可能な新しい大学入学試験と、高校在学中に基礎学力を測る到達度試験の二つの新テストを創設し、大規模な教育改革を進めようとしている。11日の会合から、本格的な議論に入る。
 
 下村文科相は「学力一辺倒の一発勝負、1点差勝負の試験を変える時だ」とし、新テスト創設の必要性を強調。さらに、大学ごとに実施する2次試験について「大学の判断だが(同会議では)2回もペーパーテストをしないで済むよう考えたい」「暗記・記憶中心の入試を2回も課す必要はない」と述べた。私立大も新テストを活用するのであれば、同様の対応を求める方針だ。
 
 同会議の改革原案では、各大学がアドミッションポリシー(入学者受け入れ方針)に基づき多面的・総合的に判断する入試を行うよう求めている。だが、面接や論文、課外活動の評価を重視する新しい2次試験では、従来のペーパー試験に比べ、人手など膨大なコストが発生する。下村文科相は「改革を進める大学には、補助金などでバックアップしたい」と述べ、国が費用面で支援する考えを示した。
 
 
入学試験は「一発勝負」だからよくないという主張は昔からありました。それを根拠に内申書重視や推薦入学が進められてきたわけです。
しかし、今回は「1点差勝負」がよくないという主張です。「1点刻みで採点するペーパー試験」という言葉も出てきました。こういう論法は初めてです。
 
かりに面接で選ぶにしても、当落ぎりぎりのところは結局「1点差勝負」になるはずです。
 
こんなお粗末な論理で行われる教育改革がまともなものであるはずがありません。
 
「人物評価」で入学者を選ぶことにはすでに批判の声が上がっています。
その理由としては、あくまで学力で選ぶべきだということと、面接が苦手な人は不利になるといったことです。
 
それにしても、大学での「人物評価」はどのような基準で行われるのでしょうか。
映画のオーディションなら、その役にあった人を選ぶわけですし、企業の採用面接であれば、その職種に合った人、企業に利益をもたらしてくれそうな人を選ぶわけです。
大学では、そこの校風に合った人を選ぶのでしょうか。しかし、それは受験者のほうで選ぶことで、私立大学ならともかく、国公立大学が選ぶことではないと思われます。
経済学部だと「経済学への情熱」みたいなものを見るのかもしれませんが、受験の段階では専門知識はなくて当然のはずです。そうすると「情熱」とか「意欲」とかを見ることになります。
受験生は「情熱」のあるふり、「意欲」のあるふりをして、面接官はそれが本物かどうかを見分ける。そんな面接になりそうです。
 
受験生がうんざりした気持ちになるのは当然です。企業の面接なら給料をもらうという見返りがありますが、相手に気に入られるよう努力して、その上授業料を払うのは納得がいかないでしょう。
 
根本的なことを言えば、人間が人間を評価するというのは間違っています。人間の評価ができるのは神さまだけです。
 
人間が人間を評価すると、当たり前ですが、どうしても選ぶ人間の価値観で選んでしまいます。価値観の枠を外れる人間は選ばれません。面接官は複数いるはずですから、それぞれの価値観の最大公約数の人間が選ばれるということになります。
つまりひじょうに狭い枠で選んでしまうわけです。
 
これは企業の面接を見ればよくわかるでしょう。応募者はみんなリクルートスーツを着ています。個性的な服装をするのは損だからです。
大学の面接でも同じことになると思われます。
 
企業が均質な人間を求めても、それはいけないとは決めつけられません。企業の裁量の範囲内だからです。
しかし、国公立大学だと話は違います。
 
しかも、教育再生実行会議の「第三次提言」には、「イノベーション創出」という言葉が再三出てきます。年寄りの面接官の価値観で選んだ人間に「イノベーション創出」を求めるのは筋違いというものです。
「イノベーション創出」ができるのは、むしろ年寄りの顰蹙を買うような、型破りの人間です。
 
なぜこのような愚かな教育改革をするのでしょうか。
それは、国公立大学というのは結局役所であって、役所はみずからの権限を拡大しようという“本能”があるからです。
面接で人を選ぶと、面接する側の権力や権威はいやが上にも高まります。
芸大や音大の先生は、その先生のレッスンを受けると入学に有利だということで入学希望者が集まりますが、おそらく似たようなことを期待しているのでしょう。
子どもを入学させたい親による大学への寄付もふえるかもしれません。
 
大学の先生の権威が高まる一方で、受験生はその権威にひれ伏さなければなりません。
これでは若者はますます元気がなくなってしまいます。
 
おとなが自分本位で考える教育改革は教育を悪くする一方です。