みのもんた氏が1026日、記者会見し、TBS系報道番組「みのもんたの朝ズバッ!」を降板したことについて説明しましたが、このとき「親の責任」を認めました。20歳すぎの子どもの行為について「親の責任」を認めるのは画期的なことです。
 
 
みの会見「責任は父である私にあります」
 タレントみのもんた(69)が26日都内で会見し、次男が窃盗容疑などで逮捕されたことや、TBS系報道番組「みのもんたの朝ズバッ!」を降板したことについて説明した。
 
 冒頭で長時間頭を下げ、神妙な表情で「わたくしごとで、大変世間をお騒がせし、申し訳ございません」と謝罪した。次男逮捕から時間がたち、気持ちの変化が出てきたことを険しい表情で明かした。
 
 「ことがことだけに、最終的な結論が出てからお話をしたほうがいいのではないかという私個人の思いがあり、あらゆる取材にお断りを入れてまいりました。その間約2カ月、ことが刑事事件ということで、報道番組への出演を自粛という形をとらせていただいていました。私の気持ちの中で何でこんなことが起きたのか、なかなか整理がつきませんでした。30過ぎた、家庭を持った、仕事を持った、社会人であるわが子を何で、という気持ちが大変強かった」
 
 そして次男を「バカ息子」と言い切った。
 
 「しかし2週間、3週間、4週間たっていくうちに私の気持ちの中に少しずつでありますが、思いの変化が出てまいりました。自宅に引きこもるような状態の中でいろいろ考えて、時間の許すままに書斎の整理をしてみたり、本棚の整理をしてみたり、無為な時間を過ごす日々でありました。その中で、何であのバカ息子が、という気持ちが、いったいおれはどうしたらいいんだ、という迷いも生じてまいりました」。
 
 そして次男逮捕について「父親の責任」を認めた。
 
 「(次男を)女房と懸命に育ててきて社会に送り出したはずなのに、何かが狂ってきた。どこかがおかしかった。そんな思いが強くなりました。確かに、あの子は私の子です。しかし成人して社会人になったはずなのに、こんなことをしでかす、どこかが子育ての中で間違っていたのではないか、不完全な形で世の中に送り出してしまったのか。だとしたら父親としての責任があるなと、思い至りました」
 
 そして続けた。「親子の縁は切れない。間違いなくわが子だ。どこかが狂ってて社会に送り出した。その責任は父親である私にあります。申し訳ございません」とまた頭を下げた。
 [201310261640分]
 
 
この問題には、いろいろな角度から言うことができます。たとえば、警察は小さな事件の割りに力を入れすぎではないかとか、マスコミはみのもんた氏の次男が“完オチ”したということで鬼の首を取ったかのように責め立てていますが、これは“自白偏重”で冤罪をつくりだす構図そのものではないかとか。
ただ、ここでは「親の責任」ということに話を絞りたいと思います。
 
みのもんた氏が頭を下げたのは、世間の風当たりがきわめて強かったからでもあります。「やめろという風潮さえなければ番組を続けていた」という意味の発言もしています。ですから、心の底から責任があると認めたのではないかもしれませんが、少なくとも表面上は責任を認めて、それに対する批判の声はほとんどないので、世間的にも「親の責任」という考え方が認められたのではないかと思われます。
 
で、みのもんた氏はなにに対して責任を認めたのかというと、「どこかが子育ての中で間違っていたのではないか、不完全な形で世の中に送り出してしまったのか。だとしたら父親としての責任があるなと、思い至りました」と言っているので、子育ての間違いに対してということでしょう。
ですから、これは「教育責任」という言葉で表現するのがぴったりくるはずです。
自分の子どもをまともなおとなにして社会に送り出すのが親の責任です。まともなおとなにならなかったら、親の責任です。子どもの責任ということはありません。
 
これまで「教育責任」ということが言われなかったのは不思議です。
20歳すぎれば本人の責任。親に責任はない」ということがまかり通っていました。これは、メーカーが不良品を製造して、「工場を出荷すればメーカーに責任はない」と言っているのと同じです。
 
とはいえ、親が20歳すぎの子どもに責任を持つというのは普通の発想です。たとえば、子どもを一流大学に行かせようとする親は、20歳すぎの子どもの幸せを考えてのことでしょう(少なくともタテマエは)。また、子どもの就職に口を出したり、恋愛や結婚に文句をつけたりと、20歳すぎの子どもの人生に関与することも普通に行われています。
ですから、親の責任を問われる場面になったときだけ、「20歳すぎれば別人格」などと言って責任逃れをするのがおかしいのです。
 
20歳すぎた子どもの就職や結婚などに口を出す親はろくなものではありません。
助言にとどめるべきだという意見もあるでしょうが、親は年齢が違い、生きてきた時代も違うのですから、助言すらたいていはマイナスになるとしたものです。
 
20歳以前、あるいは小さな子どもの教育についても勘違いがあると思われます。
生きていくのに必要な知識や技術を教えるのは意味がありますが、人格の教育、つまり“よい子”にする教育をしようとするのは間違いです。
 
たとえば、「思いやりのある子に育てたい」などという親がいます。こういう親は自分は思いやりのある人間だと思っているのでしょうか。もし自分が思いやりのある人間で、子どもにも思いやりをもって接し、夫婦関係も思いやりのあるものだったら、子どもも自然に思いやりを身につけるはずです。「思いやりのある子に育てたい」という思いなど不要です。
もし自分は思いやりの少ない人間だと思っていて、子どもは自分以上に思いやりのある人間になってほしいと思うなら、それは不可能というものです。
 
また、子どもに「嘘をついてはいけない」と教える親もよくいますが、これもおかしな発想です。子どもを嘘つきにしたくないなら、自分が嘘をつかないことです。自分が嘘をついていて、子どもは嘘をつかないということはありえないでしょう。親が周りの人間に見栄を張って嘘を言っていると、子どもはそれを学習してしまいます。
 
むしろ“よい子”に育てたいと思っている親は、子どもを嘘つきにする傾向があると思います。「宿題やった?」と聞かれて、「やってない」と本当のことを答えると叱られ、「やった」と嘘をつくと叱られないとなると、当然子どもは身を守るために嘘をつくようになります。嘘がバレて叱られると、より巧妙に嘘をつくようになります。
 
ところで、初代アメリカ大統領ジョージ・ワシントンは子どものとき、父親がだいじにしていた桜の木を切ってしまい、父親に正直にそのことを告白すると、父親はその正直さを評価して叱らなかったという話があります(これは史実ではないようです)。この話は、子どもに対して正直のたいせつさを教える話としてもっぱら利用されていますが、正しくは、親に対して正直な子どもを育てる方法を教える話として利用されるべきでしょう。
 
くだらない親が“よい子”を育てることはできません。親にできるのは、少しでも自分が“よい人間”になることだけです。
そして、“よい人間”というのは、子どもの人格を尊重するものです。
 
 
今回のみのもんた氏の記者会見をきっかけに、「親の教育責任」という概念が公認されたと言えるのではないでしょうか。
自分のことは棚に上げて子どもに好き勝手なことを要求する親は、将来「親の教育責任」を追及されてもしかたありません。