宮内庁の風岡典之長官は1114日の記者会見で、天皇、皇后両陛下が亡くなられた際の葬儀について、両陛下の意向を受け、火葬を導入し、墓に当たる陵を小規模化すると発表しました。
 
私がこのニュースを聞いて思うのは、天皇陛下は自分の葬儀についても自分だけでは決められず、最終的に宮内庁が決めるのだなあということです。
実は両陛下はもっと前から簡素な葬儀を望んでおられたのです。
次の1年半前のニュースでそのことは明らかになっています。
 
 
天皇皇后両陛下の「火葬検討」は費用抑えるためと専門家指摘
 426日、羽毛田信吾宮内庁長官は定例会見で、宮内庁は天皇皇后両陛下のご意向を受け、両陛下がご逝去の際、皇室の伝統である大がかりな“土葬”ではなく、一般的な“火葬”を検討していることを発表した。さらに両陛下は、お墓にあたる陵(みささぎ)の小規模化も望まれているという。
 
「両陛下が、生前のうちから葬儀について、ご意思を伝えられること自体が極めて異例のことです。今回の陛下のご意向は、“遺言”ともいえるものなのではないでしょうか」(宮内庁関係者)
 
 明治時代を迎えると、天皇は“神”として崇められるようになり、明治天皇は古代の天皇と同じように陵(古墳)が京都に造られ、埋葬された。この方式は大正天皇、昭和天皇にも踏襲されることとなり、各々東京・八王子市に陵が造られた。また、明治以降のそれぞれの皇后も、天皇の陵の隣りに別の陵を造り、安らかに眠られている。
 
 このような方式に両陛下が異を唱えられたわけだが、それが、なぜいまこのタイミングで発表されたのか。それには、両陛下の強い信念がある。両陛下が即位されて以降、ずっと大切にされてこられた“すべては国民とともに。国民のために”という思いだ。
 
 振り返れば、1989年に昭和天皇が崩御されたとき、その大喪は極めて大がかりなものであった。皇室に詳しい静岡福祉大学・小田部雄次教授はこう話す。
 
「葬儀に当たる“大喪の礼”には国家元首をはじめとして、使節、大使など世界164か国の人々が参列したため、警備にも約25億円が割かれました。また棺を“葱華輦(そうかれん)”という巨大な輿(こし)で運び、東京・八王子市に約30億円をかけて造られた武蔵野陵に埋葬されました。結果、葬儀に使われた費用は約100億円と莫大なものとなったんです」
 
 ちなみに2000年に亡くなられた昭和天皇の后である香淳皇后の武蔵野東陵建設の費用は約18億円だった。質素倹約を大切になさる両陛下は、国民のためにも葬送そのものを簡素化することを考え始められたという。
 
「近年の日本経済の低迷による貧困層の拡大や東日本大震災で苦しむ被災者を間近でご覧になり、“自分たちの葬送に多額の費用をかけるわけにはいかない。国民に負担は強いられない”とお考えになられたのではないでしょうか」(前出・小田部教授)
 
 常に弱者の心に寄り添われてきた両陛下だからこそ、今回の異例ともいえる発表に至ったのだろう。
 
※女性セブン2012524日号
 
 
つまり宮内庁は1年半前に「検討している」と発表し、今回やっと「決定した」と発表したのです。
しかも、この記事を読むと、両陛下は昭和天皇や香淳皇后の葬儀を見て、そのときから葬儀の簡素化を考え始められたようです。
おそらくそのころから宮内庁も検討を始めたはずです。そして、1年半前にほぼ実施の方向が決まったので「検討している」と発表したのでしょう。「検討している」と発表しながら、のちに「検討した結果、やめました」と発表するのはみっともないので、そんなことにはならないはずです。
 
とはいえ、「検討している」と発表してから最終決定まで1年半かかるのは、長すぎる気がします。その前から数えると、もっとかかっているわけです。
両陛下としては、高齢の自分はいつ死ぬかわからないので、その前に決めておきたいという気持ちがあるはずなのに、宮内庁の役人はいつもながらのお役所仕事ぶりです。
 
外遊したり、外国からの賓客に会ったり、国内各地の式典に出席したりというのは、天皇陛下の意志ではなく、基本的に宮内庁の判断で決められているはずですし、それは当然のことのように思えます。
しかし、葬儀の仕方は天皇家の問題ですから、天皇陛下ご自身の判断か、天皇家一族の家族会議で決めていいはずです。
たとえば通産省に勤めている役人が自分の葬儀のやり方について、通産省に自分の意向を伝えて、認めてもらう(認めてもらえないこともある)なんていうことがあるわけありませんが、天皇家はそういう状態にあるわけです。
 
天皇家の行事には伝統としきたりがあるから勝手に決められないのは当然だという意見もあるかもしれませんが、天皇家の伝統としきたりは天皇家がつくってきたものです。決して宮内庁がつくってきたものではありません。国政に関与しない限りは天皇家で決めていいはずです。
葬儀の簡素化ですから予算の問題もないはずです。
 
ただ、宮内庁としては予算が減るから渋ったということはあるでしょう。予算をより多く獲得したいのが役所の本能だからです。
宮内庁の決定が遅れたのも、天皇陛下と宮内庁の暗闘があったからかもしれません。
 
ともかく、このニュースで明らかになったのは、天皇陛下にも意志があるということです。
そんなことは当たり前だといわれるかもしれませんが、私の見るところ、ほとんどの人が「天皇の意志」をないと思い込んでいるか、ないことにして物事を考えています。
おそらくかつての神格化の影響で、天皇が人間であるという認識がないのでしょう。
そのため、天皇制についての議論はいつもへんなことになってしまいます。
たとえば山本太郎議員の手紙手渡し問題にしてもそうです。
 
山本議員の行為を「天皇の政治利用」だといって批判する人がいますが、「天皇の意志」の存在を考えれば、山本議員に「天皇の政治利用」のできるわけがありません。「天皇の政治利用」ができるのは、宮内庁、政府、与党など「天皇の意志」を無視して天皇を動かしうる者だけです。
 
また、山本議員の行為を「失礼」だといって批判する人がいます。確かに一介の参議院議員が天皇陛下に直接手紙を渡すというのは失礼かもしれませんが、ほんとうに失礼か否かは天皇陛下自身がどう感じたかによって決まります。つまりここでも「天皇の意志」をないことにして議論がなされています。
天皇陛下自身は脅迫された山本議員の身を案じるなど、山本議員の行為をそれほど非礼とは思っていないようです。
 
では、山本議員の行為は、多少失礼である以外に問題はないのかというと、そんなことはありません。山本議員は手紙によって陛下の心を動かし、陛下が反原発や反特定秘密保護法案の発言をしてくれることを期待したのでしょう。これは「天皇の政治介入」を期待したということで、これは批判されないといけません(この点については左翼のほうが強く批判するはずです)
ただ、陛下はちゃんとした判断力を持っておられる方ですから、「政治介入」などされるはずはないのですが。
 
一方、山本議員は手紙によって天皇陛下に理解してもらおうとしたわけで、「天皇の意志」を認めていたことになります。
山本議員の行為について議論している人たちはいっぱいいますが、「天皇の意志」を認めている人はどれだけいるでしょうか。
山本議員がいちばんの“尊皇”であるかもしれません。
 
天皇が人間である以上意志があり、政治的な考えも持っていて当然です。
たとえば、将棋棋士で当時東京都教育委員であった米長邦雄氏が園遊会で天皇陛下に「日本中の学校で国旗を掲げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます」と話しかけたとき、陛下はすかさず「やはり、強制になるということではないことが望ましい」と返されました。これもひとつの政治的な考えの表明です。
このときもし陛下が「そうですか」と返したり、あるいは黙っていても、米長氏の発言を肯定したと受け止められて、はやり政治的意志を表明したことになります。
また、昭和天皇は、靖国神社にA級戦犯が合祀されてから靖国参拝をやめましたが、これなども政治的意志の表明になっています(参拝を続けても政治的意志の表明になります)
 
今上天皇はたいへん立派な方ですが、2代先、3代先にへんな天皇が出現して、ヘイトスピーチをして戦争の危機を高めるなどということがないとはいえません。
天皇が人間である以上、そうした可能性を考えておかねばなりません。
 
そもそも立憲君主制は、王制を残しつつ民主制を実現するという矛盾した制度ですから、いつその矛盾が表面化するかわかりません。
立憲君主制においては、王制の要素は次第に縮小していくのがいいはずです。
 
そうしたことを考えると、自民党の憲法改正草案が天皇を元首と規定するのは時代に逆行するものです。
それに、天皇陛下は天皇の元首規定に反対される可能性が高く、ここでも「天皇の意志」が無視されています。