明けましておめでとうございます。
今年もこのブログをよろしくお願いします。
そして、今年がみなさまにとってよい年となりますように。
 
とはいっても、政治も経済も先行き不透明です。
しかし、どんな時代になっても、個人の生き方に変わりはないはずです。要はお金と愛の獲得を目指して生きていけばいいのです。お金と愛があればたいていは幸せになれるはずです。
 
お金の獲得は容易ではありませんが、ただ、お金についてはごまかしのないのがいいところです。企業が粉飾決算をしたり、会計係が横領したり、ハッタリで金持ちのふりをしたりということはありますが、長続きしません。
貯金だと思っていたものが実は借金だったなどということはありません。
 
しかし、愛については粉飾のし放題です。
愛でないものを愛だと思っていては幸せになれません。
そこで、今回は愛と愛でないものの見分け方について考えてみます。
 
 
愛がわかりにくいのは、たとえば「愛のムチ」という言葉があることです。こんな言葉があるから、愛と暴力は一体かと勘違いする人も出てきますし、体罰や幼児虐待がふえてしまいます。
 
ところで、私が「愛のムチ」という言葉で思い出すのが、昔見たピンク映画の中で縄師らしい男の人が「SMは愛だ」といっていたことです。
そのときは変態行為を正当化することに笑ってしまいましたが、考えてみると、「SMは愛だ」というのはあながち間違ってはいません。サディストとマゾヒストがプレイしている限り、それは確かに愛のひとつの形でしょう。
 
しかし、「レイプは愛だ」とか「ストーキングは愛だ」というとどうでしょうか。確かにレイプもストーキングも、その動機には愛があるかもしれません。しかし、相手がいやがっていれば、それは許されない行為になります。
 
「愛のムチ」も同じです。かりに動機に愛があっても、相手がいやがっていれば、それは許されない行為です。
 
ただ、「愛のムチ」という言葉が使われる場合、相手はたいてい子どもで、いやがっていてもいやといえない立場にあります。そのため「愛のムチ」などという矛盾した言葉が存在してきたのです(私は「愛のムチ」がSMなどの変態を生む原因になると思っています)
 
「愛のムチ」と同じ意味で、「お前を愛しているからたたくのだ」といった言葉もよく使われます。
この言葉がおかしいのは論理学的に考えれば明らかです。
「お前を愛しているからたたく」の対偶を取ると、「たたかないからお前を愛していない」ということになります。となると、仲の良い親子とか、仲睦まじい恋人同士など、相手をたたかない者は相手を愛していないことになります。
ですから、「愛しているからたたく」ではなく、「愛しているのにたたいてしまう」というのが正しい表現です。
 
「愛しているのに怒ってしまう」「愛しているのに相手のいやがることをしてしまう」という表現にすれば、どう行動を修正しなければならないかがおのずと明らかになります。
 
 
ところで、愛といえばキリスト教を抜きに語れません。キリスト教の「汝の隣人を愛せよ」とか「汝の敵を愛せよ」という言葉は誰でも知っているはずです。
 
私は、「汝の隣人を愛せよ」という言葉を広げると「汝の敵を愛せよ」になり、このふたつの言葉は連続しているものと思っていました。
しかし、実際は連続した言葉ではありません。「汝の隣人を愛せよ」という言葉は「汝の敵を憎め」という言葉と対になっているのです。
 
 
「マタイによる福音書 第5章 43節」
「隣り人を愛し、敵を憎め」と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。
 
 
つまり、それまでのユダヤ教では「汝の隣人を愛し、汝の敵を憎め」と教えられていたのです。
これは当たり前のことです。しかし、キリストは「汝の敵を憎め」を「汝の敵を愛せよ」に転換したのです。
これが画期的なところで、キリスト教が愛の宗教であるゆえんです。
 
「汝の隣人を愛し、汝の敵を憎め」というユダヤ教の教えは、「愛国心」の構造と同じです。
つまり「愛国心」は「自国を愛し、敵国を憎め」というものなのです。
ですから、「愛国心」の少なくとも半分は憎しみです。
 
「郷土愛」には憎しみというものはありません。私は京都生まれで、京都に対する郷土愛がありますが、関西に対する郷土愛もあります。つまり郷土愛は遠ざかるにつれて同心円状に薄まっていく構造になっています。
 
元自衛隊員という経歴の軍事ジャーナリスト神浦元彰氏は、安倍内閣が国家安全保障戦略を策定した際に「愛国心」を盛り込んだことについてこのように書いておられます。
 
 
また、愛国心のことだが、愛国心を高めることは難しくない。私は自衛隊で徹底的に愛国心を叩きこまれた。
 
まず愛国心を育てるには敵(今は中国や北朝鮮)が必要である。その敵が美しい国土や愛する家族や友人に襲って(侵略)くる。それを守るのが愛国心と教える。さらに愛国心を進化させて、その戦いのために選ばれた者(選民化)という自覚(使命感)を持たせる。
 
 一部の政治家や官僚は、国民が国家のために戦って死ぬことができる人間を育てることが愛国心だと思っている。私はそのような愛国心教育を受けた経験がある。
 
 愛国心は恋愛や自然を愛するような気持ちとはまったく別である。だから自分の国を愛して何が悪いという話ではない。
 
そのような優しい気持ちを利用して、国家に従い、政府の命令で戦って死ねる人間を作り変えることが愛国心教育なのである。
 
 自分の生まれた国や懐かしいふるさと、優しい家族や友人を大事に思わない人はいないと思っている。しかし一部の政治家は、そんな程度の愛国心ではだめなのである。
 
 軍事組織(テロ組織を含む)によって研究され、計算され、実践された愛国心教育では、3ヶ月間で普通の愛国心から”戦って死ねる愛国心”に変えることが可能と言われている。
 
そのような感情をコントロールする技術を悪用したのが「オウム真理教」であるのだ。
 
 政治家が国民に愛国心を求める時は、国民はまず注意して政治家が説く愛国心の正確な意図を見抜くことが大事である。
 
 今の北朝鮮で行われている愛国心教育を冷静に見ることも、日本の政治家の愛国心教育に騙されない参考になる。
 
「愛国心」が「郷土愛」と異質であることは誰もが感じているはずですが、「愛国心」が半ば「敵国への憎しみ」であるとすると、腑に落ちるでしょう。
 
現代にキリストが降臨すれば、「愛国心」を否定して、「汝の敵国を愛せよ」と説くはずです。
私たちはなかなかその教えの通りにはできませんが、「愛国心」が「自国を愛し、敵国を憎め」という、キリスト教以前のユダヤ教的なものであることは理解しておいたほうがいいでしょう。