日ごろ時事的な問題を扱うことが多いので、正月ぐらいは哲学的な問題を扱ってみることにします。
 
かなり昔ですが、世界の著名な科学者に対するアンケートがあって、「自由意志」に否定的な科学者の数が多かったことを覚えています。私はそのときから、なんとなく「自由意志」は科学的なものではないのかと思うようになりました。
 
とはいえ、今の世の中は「自由意志」の存在を前提として成り立っています。たとえば裁判所の判決文には、「被告はやめようと思えばやめられたにもかかわらず犯行に及んだ」といった表現がよくあります。これは、被告は「自由意志」によって犯罪をしたのだから罰されるのは当然だといっているわけです。また、マスコミは、被告は反省の様子がないとか、被害者への謝罪の言葉がないといって批判しますが、これも被告はその気になれば反省もできるし謝罪もできるはずだという前提で批判しているわけです。
 
「自由意志」というのはだいたいこのようなものです。
 
 
自由意志 free will
自由意志とは伝統的な哲学の概念で、人間の行動は外的要因によって絶対的に決定されているのではなく、行動主体が意志によって選択した結果であるとする哲学的信念である。これらの選択は、それ自体は外的要因によって決定されてはいないが、行動主体の動機や指向から特定可能である。動機や指向そのものは、外的要因から完全に特定することはできないとされる。
 
伝統的に、自由意志の存在を否定する者は、運命や超自然的な力や、あるいは物質論的な要因を、人間の行動を決定する要因と見なしている。自由意志の信奉者は自由論者とよばれることもあるが、彼らは人間の行動以外の世界がすべて、外的要因による不可避的な帰結かもしれないが、人間の行動そのものは独自のものであって、行動主体によってのみ決定可能であり、神や星々や自然法則で決定されるものではないと信じている。
 
 
早い話が、人間は自分で自分の行動をコントロールできるという考え方です。
これはみんなの実感でもあるはずです。誰かに強制されない限り、自分の行動は自分で決めているからです。
しかし、その行動は環境に適応するための行動であるはずです。となると、環境に支配されていることになります。
これは、「自分の心を自分でコントロールできるか」というふうに考えてみるとよくわかるはずです。恐怖心や欲望はなかなか自分でコントロールできません。恐怖心や欲望は環境に即応して生じるからです。
そして、恐怖心や欲望をコントロールできないなら、自分で自分の行動もコントロールできないことになります。
 
ちょっと高い視点から見ると、よりわかりやすくなります(これがつまり「メタ認知」ですね)。
A、B、Cと選択肢があるとき、人間は自分の意志で自由に選択しているつもりですが、実際はつねに最善(と自分が判断する)策を選択していて、次善策や悪い策を選ぶことはないので、自由に選択しているのではないというわけです。
 
「自由意志」という考え方のもとをたどっていくと、哲学上の決定論か非決定論かという問題に行き着きます。
 
この世の出来事はすべてあらかじめ決められているという考え方が決定論です。
もう少し説明すると、ひとつの出来事はその前の出来事から必然的に導かれる、つまりすべての出来事は原因と結果の必然的な連鎖によって成り立っているという考え方です。
もちろん人間の行動や思考も同じですから、「自由意志」などあるわけありません。
 
この考え方を否定するのが非決定論です。決定論と非決定論とどちらが正しいかは哲学者が議論するところでした。
 
そこに近代科学が登場します。科学は自然界を支配する法則を次々と明らかにしましたが、それらは全部決定論に与するものでした。
 
たとえば天体の運行はすべて法則によっているので、過去の動きがわかれば将来の動きが計算できます。自然界の動きはすべて同じようなものであるはずです。
生物やその神経系も物理法則に従っているのはもちろんです。
 
カオスについては、人間の知性やコンピュータの働きではとらえられないとされますが、法則によって動いていることに変わりはありません。
 
ただ、微妙な例外もあります。それは、量子力学における不確定性原理で、量子の位置を測定すれば運動量が測定できず、運動量を測定すれば位置が測定できないというものですが、これを根拠に決定論は破れた、したがって人間に「自由意志」があると主張する人がいます。
単なる観測上の問題をそこまで飛躍させるのは不思議ですが、最近「科学者たちはなにを考えてきたか」(小谷太郎著)という本を読んで、そのわけがわかりました。理論物理学者のフォン・ノイマンが「量子力学の数学的基礎」という本の中で、観測されるときの系の状態を物理学で説明することはできない、その状態を引き起こすのは観測者で、しいていうなら「抽象的な自我である」と書いたのです。この「自我」というたったひとつの言葉のために当時、激論が起こって、その影響が今まで続いているというのです。
 
かりに量子のレベルで決定論とは違う動きがあったとしても、そのことが人間の精神に影響を及ぼして、人間の精神以外に影響を及ぼした形跡がなにもないというのはおかしなことです。不確定性原理があるから人間に「自由意志」があるのだという主張には明らかにむりがあります。
 
この世は決定論に支配されているとなると、自分の行動もすべてあらかじめ決まっているということになりますが、どう決まっているかは知るすべがないので、私たちの生き方に影響するということはないはずです。私たちは与えられた環境で一生懸命生きていくしかありません。
世界が法則に従って動いていることを知れば、よりうまく適応できるはずですし、自分の心も法則に従って動いていることを知れば、さらにうまく適応できるはずです。
 
むしろ逆に、自分に「自由意志」があると思っていては、現実をありのままに認識できず、うまく適応もできないはずです。
 
ともかく、「自由意志」は「霊魂」や「超能力」と同じようなもので、みんながあってほしいと思うものの、科学的には存在が証明されないものです。
 
それでも、多くの人が「自由意志」の存在を信じているのは、信じるとつごうのいいことがいろいろとあるからです。
 
たとえば、現在の刑事司法システムは、犯罪者の心に「悪意」や「犯意」が生じることが犯罪の原因であるとして犯罪者を裁いていますが、これによって、犯罪者の周りの人間や社会制度を免罪して、社会の安定をはかっているわけです。
しかし、凶悪犯の脳を調べると異常の発見されることが多く(先天的な異常もあれば幼児期の被虐待経験などによる異常もある)、また、多くの犯罪者は劣悪な環境で育ち、しばしば軽い知能障害者であったりするので、犯罪が「自由意志」によるものだというごまかしが今まで続いているのが不思議です。
 
また、人が貧乏になるのは本人が努力をしないせいだとすれば、格差社会を正当化することができて、富裕層には好都合です。
 
教え方のへたな教師は、生徒の成績が伸びないのは生徒の「やる気」がないせいだとしますし、しつけのへたな親は、子どもが反抗するのは子どもに「素直な心」がないせいだとします。
 
「自由意志」を否定するのは科学だけでなく、仏教もそうです。
 
仏教の核心は次の3行で表されます。
 
諸行無常
諸法無我
涅槃寂静
 
これを自分流に解釈すると、こうなります。
 
世界は法則に従ってつねに変化している
人間はその法則を変えることができず、人間もまた法則に従う存在である
そのことを理解すれば安らぎの境地が得られる
 
「諸法無我」という言葉が「自由意志」の存在を真っ向から否定しています(人間に「自由意志」があると考える人は、人間以外の動物には「自由意志」はないと考えているようなので、これは人間は神に似せてつくられたというキリスト教的な考え方でもあるでしょう)。
 
人文科学や社会科学の分野でいまだに「自由意志」という妖怪が徘徊しているのは情けない限りです。