シリーズ「横やり人生相談」です。今回は道徳的に生きてきたために不幸になってしまったという人からの相談です。安倍内閣は道徳教育を強化する方針ですが、こういう不幸な人をふやしてしまうのではないかと心配です。
 
 
(悩みのるつぼ)試験で不正した大学の友人たち
20141111500
 ■相談者:女性 40代
 
 40代の女性です。難関と言われる大学を、バブル期に卒業しました。試験時には一番後ろの席が取りあいになり、机に解答を書いたり、英語の訳本をひざに置く人がいました。
 
 入試での不正行為は大きな社会問題になっても、学内の試験での出来事は封印されています。カンニングが発覚すれば半年分の単位が没収されたはずですから、彼らの卒業は偽りのものです。
 
 そんなメンバーと最近、再会したら、彼ら彼女らは、公務員や大企業の正社員という立派な肩書を持っていました。
 
 社会に出ると、学力だけでなく、人柄やコミュニケーション能力、さまざまな技能が望まれます。「世渡り力」も能力のうち、といってしまえばそれまでですが、不器用でもけなげに生きている人たちは、浮かばれないのではないでしょうか。
 
 今は就職難で、学生は私たちの時よりきちんと学んでいると思いますが、代返や代筆、試験前にノートを借りにくる連中、いつの時代もありそうです。
 
 そう思うと、往々にして要領のいい人の天国になりがちな大学を、楽しいところとは思えません。私は再会した同級生を今でも許せません。
 
 彼らは決して食肉偽装を指摘できる分際ではありません。自分の胸に手を当てて考えてもらいたいです。おかしいとは思われませんでしょうか。
 
この相談に対する回答者は、評論家の岡田斗司夫氏です。
岡田斗司夫氏は最近、「『いいひと』戦略超情報化社会におけるサバイバル術」(マガジンハウス)や「僕らの新しい道徳」(朝日新聞出版)といった本を出して、道徳についての考えを述べておられますから、この相談に適した回答者と見なされたのでしょう。
 
回答を要約します。
岡田氏は相談者に対して、大学時代のあなたは「純粋」だったといいます。しかし、40代になって軸がブレてきている。ブレずに純粋さを守って生きてください。人生経験を重ねたあなたには「単純な純粋さ」の代わりに「強さ」を手にいれた。それは損得ではなく、自分らしいかどうかで生き方を選ぶ「強さ」だ。
「かつての自分の純粋さを誇り、いまの自分が選んだ生き方を誇ってください」というのが最後の1行です。
 
この要約はわかりにくいかもしれませんが、それは多分にもとの文章がわかりにくいからです。納得いかない方はリンク先へ行って直接読んでください(全文引用は遠慮しています)
 
相談者は、カンニングしなかった自分のことを「不器用でもけなげに生きている」というふうに認識しています。
回答者の岡田氏も、「純粋」という言葉でその生き方を肯定しています。
ということは、カンニングしていた人たちは、要領よく偽りをする、純粋でない人ということになるのでしょう。
 
自分は正しい人間、あいつらは悪い人間、それなのにあいつらは幸せになって、自分は不幸になっている、これは不当で、納得いかない、というのが相談者の主張です。
それに対して回答者は、自分の純粋な生き方を誇ってくださいというのですが、「誇り」なんていう言葉では相談者は納得しないのではないかと思います。
 
私が思うに、自分のことを「不器用でもけなげに生きている」とか「純粋」とか道徳的によい評価をしているのがいけません。なぜなら自分をよく評価していると、自分を変えようという発想には絶対ならないからです。
 
私の考えでは、カンニングをした彼ら彼女らも、カンニングしなかった自分も、基本的に同じ人間です。どちらも利益を追求して生きています。
彼らはカンニングをすることが得だと思ってカンニングしたわけですが、自分はカンニングすると発覚したときの不利益が大きく、カンニングしないほうが得だと思ってカンニングをしなかったのです。
もし彼らのカンニングが発覚して罰を受けていれば、自分の生き方は正しかったと思うでしょう。
 
なぜ自分はカンニングしなかったかというと、たぶん生まれつき臆病なので、安全な生き方を選ぶ人間なのです。それに、そういう人は人の目を盗んでなにかをするという経験がほとんどないので、急にカンニングをしようと思ってもうまくできません。つまりカンニングをしないことが自分にとって合理的な行動なのです。
一方、カンニングをした人間は度胸があって、人の目を盗んでなにかをするという経験もよくあって、試験の監督官の目を盗んでうまくやれる確率も高いのです。ですから、カンニングをすることが彼らにとって合理的なやり方になります。
 
人間はそれぞれ合理的と思われるやり方で利益を追求して生きていて、その点でみな同じです。
 
では、どこで差がついたかというと(同じ大学なので勉強の能力は同じだとして)、やはりコミュニケーション能力や「世渡り能力」でしょう。代返、代筆、ノート借りができるのもひとつの能力です。それに、カンニングをする「度胸」も能力といえなくありません。
 
相談者は勉強していい成績を取ることが自分の利益だと思ってやってきたのですが、これはいわゆる「ガリ勉」です。
「ガリ勉」が幸せになれないのは不思議なことではありません。
 
相談者がもし勉強するだけでなく友だちがいっぱいいて、代返をしてやったり、ノートを貸してやったりするような人間であれば、もっといい人生が送れた可能性があります。
 
相談者は「勉強しなさい」「規則を守りなさい」といわれて、その通りに生きてきたのでしょう。そして、それは道徳的に正しい生き方だと思っています。しかし、幸せになれないので、非道徳的な生き方をした同級生を非難しています。いくら非難しても自分が幸せになれるわけではないのですが。
 
私はこれは道徳教育が人を不幸にする例ではないかと思います。
 
それから、相談者はカンニングをせずに勉強したのですから、カンニングをした人間よりも確実に「学力」は身についているはずです。もし「学力」に価値を見いだすなら、カンニングした人間をうらやんだり非難したりすることはありません。
相談者は「学力」を身につけようと勉強してきたのに、今では「学力」に価値のないことに気づいて、それも不幸の原因になっていると思われます。
 
 
道徳教育、学力重視教育がどんどん強化されていますが、よりどころにできるほどの高い学力を身につけられるのはごく一部の人だけです。
その結果、いわれた通りに規則を守り、勉強してきたのに幸せになれないという相談者のような人が大量に生み出されているのではないかと思われます。
 
相談者は、身近にいる不正をした人間を非難することで自分の不幸をまぎらわそうとしていますが、世の中には、「在日特権」を非難することで自分の不幸をまぎらわそうとする人もいます。
道徳教育、学力重視教育がこうした人をつくりだしていると思います。