日本テレビは2月4日、全国児童養護施設協議会に対して、「明日、ママがいない」の内容変更計画を記した文書を手渡しました。ドラマに圧力がかかって改変を余儀なくされるとは前代未聞のことではないでしょうか。なぜこんなことになってしまったのか、出発点にさかのぼって考えてみました。
 
熊本県の慈恵病院が「明日、ママがいない」の放送に抗議し、放送中止を訴えて放送倫理・番組向上機構(BPO)の放送人権委員会に審査を求めたことがそもそもの発端でした。
慈恵病院は「赤ちゃんポスト」(正式名は「こうのとりのゆりかご」)を運営しているところです。慈恵病院は2007年に「赤ちゃんポスト」の運営を開始しましたが、当時はかなり反対の意見が強かったことを覚えています。第一次安倍政権のときの安倍首相も、「『ポスト』という名前に大変抵抗を感じる。親として責任をもって産むことが大切だ」というコメントをしています。
そうした反対を押し切って「赤ちゃんポスト」の運営をしてきたということは、慈恵病院は赤ちゃんの命を守ることに相当に強い信念を持っているということでしょう。その慈恵病院が「明日、ママがいない」に抗議したということで、その言い分にそれなりの信ぴょう性がありました。ドラマの初回の視聴率は14%ですから、ほとんどの人は見ないで判断したわけです。そのためひとつの流れができてしまったように思われます。
 
慈恵病院はフランシスコ修道会によって創設され、理念は「キリストの愛と献身の精神を信条とします」ということです。
病院のホームページには、「明日、ママがいない」についての病院の見解がひじょうにていねいに説明されています。
 
現在放送中の「明日、ママがいない」放送に当たりまして
 
しかし、それを読むと、やはり認識に致命的な問題のあることがわかります。
 
たとえば、子どもに「ポスト」「ロッカー」「ドンキ」などのあだ名がついているのがよくないといいます。しかし、これは前にも指摘しましたが、「ポスト」という名前は本人が受け入れているのです。なぜ本人がよしとしていることを慈恵病院はいけないというのでしょうか。
つまり慈恵病院は、「子どもの意志」というものがまったく眼中にないのです。
 
これはあらゆるところに見られます。
「魔王」というあだ名の施設長が子どもにさまざまな暴言を吐くのは子どもが傷つくのでよくないといいます。
たとえば、施設長が「イヌだって、お手くらいの芸はできる。分かったら泣け」というシーンについてこのように書いています。
 
このような発言は施設の子や里子の名誉を傷つけるものです。「施設では泣く練習をさせられるの?」という質問だけでも、子どもは傷つきます。
 
ドラマの中での発言が現実の子どもを傷つけるかというと疑問があります。むしろドラマの中の子どもが傷つくのを見て、自分にも同じことがあったと共感して、救われることも多いでしょう。それに、『「施設では泣く練習をさせられるの?」という質問だけでも、子どもは傷つきます』というのも一方的な決めつけです。「施設では泣く練習をさせられるの?」という言葉から会話が始まって、施設がどんなところであるかを友だちにわかってもらえるということも十分に考えられます。
 
「子どもが傷つく」という言葉がまるで水戸黄門の印籠のように使われています。
 
確かにいろいろなことで子どもは傷つきますが、子どもはそれに対処する能力も持っています。傷つける相手に反抗したり、傷つけられた者同士で慰め合ったりします。
そのように能動的に行動する子どもの姿を描くのが「明日、ママがいない」というドラマです。
ところが慈恵病院は子どもが傷つくか否かというところしか見ていないのです。
 
ここには大きな子ども観の対立があると思われます。
 
従来の子ども観は、子どもはおとなによって教育されることで初めて人間となるというものです。この考え方は「空白の石版」(ラテン語のタブラ・ラーサ)という言葉で表されます。つまり、子どもは白紙の状態で、おとなが自由に書き込めるものだというわけです。
この考えだと、子どもの個性も能力の差もありません。教室でなにを教えるかは大人の自由です。現在の教育はこの考えで営まれています。
 
それに対して、子どもは生まれつき学習能力を持っていて、その学習の方向性も決まっているという考え方があります。これは認知科学や脳科学や発達心理学や進化生物学などによって次第に確立されてきたものです。
 
「客体としての子ども」対「主体としての子ども」というとわかりやすいでしょう。
 
これについてはこの本が参考になります。
 
人間の本性を考える ~心は「空白の石版」か ()スティーブン・ピンカー著 (NHKブックス)
内容(「BOOK」データベースより)
人の心は「空白の石版」であり、すべては環境によって書き込まれる。これは、二〇世紀の人文・社会系科学の公式理論であり、反対意見は差別や不平等につながるとして、今なおタブー視される。世界的な認知科学者が、人の心や行動の基礎には生得的なものがあることを最新科学で明かし、人間の本性をめぐる科学が、道徳的・感情的・政治的にいかにゆがめられているかを探究する。米国で大反響のベストセラー、待望の翻訳。
 
また、子どもの権利条約も、おとなによって保護されるだけの子どもから「権利の主体としての子ども」へと子ども観の転換をしています。
 
このドラマは「ポスト」が主人公で、仲間の傷ついた子どもを助けたりして活躍する物語ですが、慈恵病院のサイトにはそういう部分についての言及がまったくありません。つまり、慈恵病院の人の目には、子どもの受身の部分だけが見えて、子どもが主体的、能動的に行動する部分は見えないのでしょう。これではドラマを見ていることにはなりません。ですから、「明日、ママがいない」というドラマについての全体的な評価がありません。
本来なら、「赤ちゃんポスト」出身の子どもが主人公として活躍するドラマですから、細かいところに注文はつけても、全体としては積極的に評価していいはずです。
 
また、施設の子がドラマを見る場合も、ただ傷つくだけでなく、ドラマに共感したり、反発したり、批判したりすることによって得ることも多いはずですが、慈恵病院の人の目にはそうした能動的な面もまったく見えていません。
 
さらにいうと、施設の子どもがテレビを見る場合、自分でチャンネルを選ぶことも、見ないでいることもできるはずです。ですから、もし自分が傷つくようなドラマなら、子どもはすぐに見るのをやめるでしょう。
ですから、慈恵病院の放送中止という要求は、子どもにとって大きなお世話です。
世間が勘違いするということはあるかもしれませんが、世間はなにかにつけて勘違いするものですし、子どもはその勘違いを正していく可能性も持っています。
 
ちなみに、青少年の健全な育成のために「有害図書」を規制すべきだという議論も、青少年は自分で選ぶ能力もなく、「有害図書」を見たらそのまま受け入れてしまうだろうという前提に立っています。
 
ともかく、慈恵病院は古い子ども観に立って、子どもの能動的、主体的な面を無視して「明日、ママがいない」を評価し、ドラマの放送中止、内容改編という、してはならない要求をしました。
慈恵病院は社会的な評価が高いために、世論をミスリードした面があることは否めません。
 
TBSは昨年、「こうのとりのゆりかご~『赤ちゃんポスト』の6年間と救われた92の命の未来」というドラマを放送しました。これはフィクションという形をとりながら慈恵病院の「こうのとりのゆりかご」を描いたもので、ドラマの制作過程では当然ながら慈恵病院も関与し、さまざまな要求をしました。
しかし、「明日、ママがいない」は慈恵病院をモデルにしたものではありません。ここに要求するのは、TBSドラマのときの連想が働いたのかもしれませんが、筋違いというべきです。
 
慈恵病院は赤ちゃんの命は救いますが、そのあと育てたり、教育したりするところではありません。専門でないところに口を出したのは残念でした。