3月12日に「明日、ママがいない」の最終回の放送がありました。
最終回の視聴率は12.8%だったそうです。全9話の平均も12.8%でした。
よけいな横槍が入らなければ、もっと視聴率が取れたのではないかと思います。
また、横槍が入ったために、ストーリーが変わってしまった可能性があります。とくに最終回はそんな思いが強くしました。
 
最終回では、「ドンキ」は前から順調にいっていた松重豊と大塚寧々の家庭に引き取られ、「ボンビ」はあこがれの「ジョリピー」(アンジェリーナ・ジョリーとブラッド・ピット似の夫婦)の養子になり、「ピア美」は父親とともに暮らすことになり、その才能を見込んだピアノの先生によってピアノのレッスンも続けられることになります。これらは予想通りの展開です。
 
間もなく18歳になる「オツボネ」は看護学校の寮に入ることにしますが、最後に「魔王」の意向で「ロッカー」と同様に「コガモの家」に職員として残ることになります。これは少し安易な結末ではないかと思いました。
児童養護施設は18歳で出ていかなければならないというルールがあり、同じ境遇であるがゆえに「オツボネ」に共感していた児童養護施設の子どもは、ハシゴを外された格好になります。
私としては、外に出ていってがんばるという結末にしたほうがいいのではないかと思いました。
 
意外なのは児童相談所職員の「アイス」です。金持ちと婚約して専業主婦になるはずだったのですが、「魔王」とこんな会話をします。
 
「この仕事を辞め、まずは市議会議員に立候補する準備を始めます」
「市議?」
「子どもの居場所を自分たちの目で見つけさせる。その意志を遂げるためにはどうすればいいか。私なりに考えた結果です」
「まだまだこの国には課題はたくさんある。子どものために戦うくらい」
「ええ」
 
この会話は、全国児童養護施設協議会などに対する批判が込められていると察せられます。ですから、もし横槍がなければ、こうした会話は存在しなかったかもしれません。
 
芦田愛菜ちゃんの「ポスト」は、安達祐実さんのもとに里子に行くことになりそうだったのですが、最終的に「魔王」に止められます。なぜ「魔王」が止めたかというと、こんなセリフをいいます。
 
「寂しい。お前がいなくなると、俺が寂しいんだ」
 
これはちょっと気恥ずかしいです。今までのストーリーの流れや「魔王」のキャラクターと違う感じがします。
最終的に、「魔王」が「ポスト」の親代わりになるというのがこの物語の結末です。
2人で撮ったプリクラには、「パパ」と「キララ」という名前が入っています。「ポスト」は「キララ」という名前になったのです。
 
「魔王」が「ポスト」の親代わりになるというのは、私はまったく予想していませんでした。これはもしかして、むりにハッピーエンドにするために、予定変更が行われたのではないでしょうか。
私の漠然とした予想では、「コガモの家」にまた新しい子どもが入ってきて、「ポスト」と「魔王」はうわべは互いにいがみあいながらもまた同じような日常を続けていくみたいな結末でした。
 
もし全国児童養護施設協議会などの抗議があったためにストーリーが変わったとすれば残念なことです。
また、「魔王」のキャラクターがちょっといい人になりすぎた気もします。もっと毒を吐くキャラクターであったほうがおもしろくなったはずです。
 
ともかく、児童養護施設の子どもが主人公のドラマが放送されたのは大いに評価するべきことです。
しかし、その一方で、全国児童養護施設協議会などの抗議によってスポンサーが撤退し、今後同様のドラマやノンフィクションがつくりにくくなりました。その点で、全国児童養護施設協議会などは児童養護施設をタブー領域にするという所期の目的を達成したことになり、今後が懸念されます。
 
 
ともかく、今回の騒ぎで、全国児童養護施設協議会などの抗議は不当だと主張するマスコミや有識者がほとんどいなかったことが印象に残りました。
なぜそうなるかというと、子どもを独立した人格として認めていないからです。
子どもを親の付属物とか、児童養護施設の付属物と見なしていると、「このドラマで子どもが傷つく」と児童養護施設が主張すると、反論することができません。
 
子どもを独立した人格と認めないことには根の深い問題があります。
その始まりは、少なくとも1776年の「アメリカ独立宣言」にまでさかのぼれます(ほんとうは文明の始まりまでさかのぼれる理屈です)
 
「アメリカ独立宣言」にはこう書かれています。
 
我らは以下の諸事実を自明なものと見なす.すべての人間は平等につくられている.創造主によって,生存,自由そして幸福の追求を含むある侵すべからざる権利を与えられている.これらの権利を確実なものとするために,人は政府という機関をもつ.
 
「すべての人間」という言葉があるので、これをもって「普遍的人権」といいます。これは1789年の「フランス人権宣言」に引き継がれ、人権思想こそが近代社会の基礎となりました。
 
しかし、「アメリカ独立宣言」の「すべての人間」という言葉には、実は先住民や黒人や女性や子どもは含まれていませんでした。つまり先住民や黒人や女性や子どもは人間以下の存在と見なされていたのです(これは「フランス人権宣言」でも同じです)。当然、選挙権もありません。
ですからこれは、「白人成年男性の支配宣言」とか「先住民、黒人、女性、子どもに対する差別宣言」と称するのが正確です。
これによってアメリカの白人成年男性は先住民の虐殺や黒人奴隷の使役や女性差別を心置きなくできるようになったわけです。
 
「普遍的人権」の内実が実は「差別」であることは、思想の混乱を招いて、それは今も尾を引いています。
 
その後、アメリカでは1920年に女性に選挙権が認められます。黒人については、1965年に投票権法が成立しますが、文盲テストというものが行われ、これによってほとんどの黒人が投票できないのが実情でした。文盲テストが廃止されたのは1971年のようです(先住民の選挙権のことは調べてもわからなかったのですが、黒人と同じ扱いだったのではないかと想像されます)
 
しかし、子どもにはいまだに選挙権が認められていません。
アメリカだけでなく世界中がそうです。
子どもに選挙権を認めない合理的な理由はなにもありません。これは明らかに「差別」です。
 
ことは選挙権だけではありません。子どもの人格を認めない惰性の思考がいまだに続いています。
子どもにも判断力があり、自己決定権があるということを理解していれば、全国児童養護施設協議会などの抗議が不当なものであることはすぐにわかります。
 
今回の「明日、ママがいない」を巡る騒動は、単なるテレビドラマのつくり方の問題ではなく、人権思想の理解度をはかるバロメーターであり、また、子どもを犠牲にしてでも自分の利益をはかろうとするおとなと、子どもの幸せを考えるおとなとの対立でもありました。