集団的自衛権行使に賛成する人の中には、軍拡を続ける中国に対抗するためには必要ではないかという人がいます。もちろん一般の人の意見です。政治家や専門家でそんなことをいう人はいません。中国と日本の間でなにかあったら、それは個別的自衛権の問題で、集団的自衛権とは関係ないからです。
 
とはいえ、中国に対抗するために集団的自衛権行使が必要だとする心情にはけっこう広がりがあります。というか、安倍首相以下の政治家にも同じ心情があるのではないでしょうか。
 
これまでの防衛政策は、専守防衛という言葉の通り、守ってばかりでした。
守ってばかりでは、相手に脅威を与えることができません。
集団的自衛権は、自分が攻撃されていなくても、つまり正当防衛でなくても相手を攻撃することができる権利です。
もちろん攻撃できるのは限られた状況だけですが、それでも“攻めの姿勢”を見せることができるとなると、これまでとは大違いです。
 
中国が日本に脅威を感じるかどうかはわかりませんが、少なくとも日本人の中に“攻めの姿勢”を見せたいという心情があることは否めません。
いや、それは日本人に限らない問題です。
 
人間は守るよりも攻めるほうが好きです。これは人間に普遍的にある性質です。しかも、不合理な性質です。
 
たとえば、将棋を覚えたばかりの初心者が将棋を指すと、駒をどんどん前に動かす、つまり攻めの手ばかり指します。そのため守りがおろそかになってしまいます。
将棋には「王の早逃げ八手の得」という格言があります。つまり守りの一手は攻めの八手に値するという意味ですが、これはみんなが攻めの手ばかり指すからこそ成立する格言です。
 
囲碁には「囲碁十訣」という中国古来の十個の格言がありますが、その中にも守りのたいせつさを説くものがいくつもあります。
 
「界に入りては穏やかなるべし」(相手の勢力圏に入ったときは穏やかにいくべきだ)
「彼を攻めるに我を顧みよ」
「彼強ければ自ら保て」
「勢い孤なれば和を取れ」
 
どの格言も似たようなことをいっていますが、これもみんなが攻めにばかり走るので、それを戒めることがだいじになるからです。
 
スポーツでも同じことがあります。
野球は攻めと守りが1回ごとに交代しますが、攻めの回に入るとみんな盛り上がり、守りの回に入ると、みんなやれやれという感じで守りについていきます。
ファインプレーで相手の1点を阻止するのと、ナイスバッティングで1点を取るのと、どちらも価値は同じはずですが、たいていヒーローとしてお立ち台に立つのは1点を取ったバッターです。
 
サッカーでも、一般的なファンはフォワードやミッドフィルダーにばかり注目し、ディフェンダーにはあまり注目しません。人気選手というのはたいてい点を取る選手で、いくらいい守備をしてもディフェンダーで人気選手というのはあまりいません。
 
戦争でも、第二次世界大戦のとき、日本軍は劣勢な状況においても切り込み攻撃や夜襲を繰り返して負けを早めました。
 
つまり人間は誰でも、守りよりも攻めが好きなのです。
しかし、これは認知バイアスの一種で、不合理なものです。
私は『「孫子の兵法」と集団的自衛権論議』という記事で、人間は負ける可能性よも勝つ可能性のほうを過大に評価するという認知バイアスがあると書きましたが、それと同じようなものです。
 
将棋や囲碁では、攻めばかり考えて守りをおろそかにしていると、相手に足元をすくわれて負けてしまいます。そうした経験を何度も繰り返すうちに、守りのたいせつさに気づき、攻めと守りのバランスを取るようになります。
野球では、守備練習に力を入れるチームは強くなります。
サッカーでは、監督は選手の守備力も評価してチームを構成します。
 
とはいえ、守るよりも攻めるのが好きというのは人間の基本的な性質ですから、国民世論が守りよりも攻めのほうに傾くのは不思議ではありません。
そして、経験のあるリーダーが攻めにはやる国民を抑えるというのが普通でしょう。
 
しかし、今の日本では、国民の多くは専守防衛でいいと思っているのに、国のリーダーが“攻め”をやりたくて必死になっているという構図です。
お坊ちゃん首相と軍事プラモオタクの幹事長が国のリーダーになってしまった悲喜劇です。