安倍政権が解釈改憲をやろうとするのは、もとはといえば最高裁が自衛隊についてきちんと憲法判断をしなかったからであり、そのため内閣法制局が最高裁の代わりを務めてきたからです。
政治家同士が、これは合憲だ、これは違憲だと議論しても結論の出るはずはなく、時間のむだです。戦後の日本はずっとそんな時間のむだをしてきたわけです。
 
裁判所がだめなのは、数々の冤罪事件を見逃してきたり、行政訴訟で行政側に都合のよい判決ばかりを出してきたりということで、ある程度知られてきているでしょうが、裁判所の内実とか、裁判官が一般的にどんな人間かということは、ほとんど知られていません。
そうした中で、「絶望の裁判所」(瀬木比呂志著/講談社現代新書)という本が出て話題になっています。
 
著者の瀬木比呂志氏は、1954年生まれ、東大文科Ⅰ類に入学し、4年生のときに司法試験に合格します。なぜ司法試験を受けたかというと、自分が会社勤めに向いているように思えなかったことに加えて、両親の望みもあったからです。しかし、瀬木氏本人がほんとうにやりたかったのは文学部での社会・人文科学の研究だったといいます。また、文学、音楽、映画などに造詣が深く、1年間アメリカに留学したこと、その後うつ病になったこと、裁判官をしながら学術的な本を何冊も出版したことなども、裁判官の世界を客観的、批判的に見る視点の確立に役立ったと思われます。
33年間裁判官を務めたのち、現在は明治大学法科大学院専任教授です。
 
裁判官の世界についてはこれまでほとんど知られてこなかったと思うので、ここでは書評というよりも、もっぱら内容の紹介をすることにします。
 
とりあえず「はしがき」から引用します。
 
あなたが理不尽な紛争に巻き込まれ、やむをえず裁判所に訴えて正義を実現してもらおうと考えたとしよう。裁判所に行くと、何が始まるだろうか?
おそらく、ある程度審理が進んだところで、あなたは、裁判官から、強く、被告との「和解」を勧められるだろう。和解に応じないと不利な判決を受けるかもしれないとか、裁判に勝っても相手から金銭を取り立てることは難しく、したがって勝訴判決をもらっても意味はないとかいった説明、説得を、相手方もいない密室で、延々と受けるだろう。また、裁判官が相手方にどんな説明をしているか、相手方が裁判官にどんなことを言っているか、もしかしたらあなたのいない場所であなたを中傷しているかもしれないのだが、それはあなたにはわからない。あなたは不安になる。そして、「私は裁判所に非理の決着をつけてもらいにきたのに、なぜこんな『和解』の説得を何度も何度もされなければならないのだろうか? まるで判決を求めるのが悪いことであるかのように言われるなんて心外だ……」という素朴な疑問が、あなたの心にわき上がる。
また、弁護士とともに苦労して判決をもらってみても、その内容は、木で鼻をくくったようなのっぺりした官僚の作文で、あなたが一番判断してほしかった重要な点については形式的でおざなりな記述しか行われていないということも、よくあるだろう。
もちろん、裁判には原告と被告がいるのだから、あなたが勝つとは限らない。しかし、あなたとしては、たとえ敗訴する場合であっても、それなりに血の通った理屈や理由付けが判決の中に述べられているのなら、まだしも納得がいくのではないだろうか。しかし、そのような訴訟当事者(以下、本書では、この意味で、「当事者」という言葉を用いる)の気持ち、心情を汲んだ判決はあまり多くない。必要以上に長くて読みにくいが、訴訟の肝心な争点についてはそっけない形式論理だけで事務的に片付けてしまっているものが非常に多い。
こうしたことの帰結として、2000年度に実施された調査によれば、民事裁判を利用した人々が訴訟制度に対して満足していると答えた割合は、わずかに18.6%にすぎず、それが利用しやすいと答えた割合も、わずかに22.4%にすぎないというアンケート結果が出ている(佐藤岩夫ほか編『利用者からみた民事訴訟――司法制度改革審議会「民事訴訟利用者調査」の2次分析』[日本評論社]15)。日本では、以前から、訴訟を経験した人のほうがそうでない人よりも司法に対する評価がかなり低くなるといわれてきたが、右の大規模な調査によって、それが事実であることが明らかにされたのである。
 
少し前まで、日本も好むと好まざるとに関わらずアメリカのような訴訟大国になっていくだろうといわれていました。そのため、司法試験合格者を年間3000人にふやすことを目標とし、法科大学院をつくったりという制度改革を行ってきましたが、最近は若い弁護士が生活していけないなどといわれます。私はそんなことはないだろうと思っていましたが、本書を読んで納得がいきました。
というのは、裁判所の統計によると、地裁訴訟事件新受件数は、民事ではピーク時である2009年度から2012年度には74.9%に減少し、刑事ではピーク時である2004年度から67.5%に減少しているのです。訴訟大国どころか逆に訴訟小国への道をたどっており、弁護士が余るのも当然です。
 
訴訟件数がへっているということは、裁判所や司法制度が国民から見離されつつあるということでしょう。問題は憲法判断や冤罪事件という目立つことだけではなく、むしろ日常的なレベルで進行しているのです。
 
裁判所がそのようになったのは、主に裁判所の人事制度のせいだと著者はいいます。
 
裁判所の組織は、最高裁長官を頂点としたピラミッド型で、しかも相撲の番付表にも似た細かい序列があって、事務総局中心体制に基づく上命下服、上意下達のヒエラルキーを形成しているということです。事務総局の意向に反する判決や論文等を出すと、露骨ないやがらせ人事をされます。いや、「事務総局に逆らう」ということでなく、「自分の意見を述べる」ということだけで、いやがらせ、見せしめの人事がされ、そのため裁判所は「精神的な収容所群島」となっているということです。
 
しかし、裁判官は憲法でも身分保障がされています。出世しなくても自分の信念を貫く裁判官はいないのかという疑問が生じますが、これについて著者はこういいます。
 
さて、学者仲間やジャーナリストと話していると、「裁判官になった以上出世のことなど気にせず、生涯一裁判官で転勤を繰り返していてもかまわないはずじゃないですか? どうして皆そんな出世にこだわるんですか?」といった言葉を聞くことが時々ある。
「ああ、外部の人には、そういうことがわからないんだ」と思い知らされるのが、こうした発言である。おそらく、こうした発言をする人々だって、裁判官になれば、その大半が、人事に無関心ではいられなくなることは、目に見えているからだ。
なぜだろうか?
それは、第一に、裁判官の世界が閉ざされ、隔離された小世界、精神的な収容所だからであり、第二に、裁判官が、期を中心として切り分けられ、競争させられる集団、しかも相撲の番付表にも似た細かなヒエラルキーによって分断される集団の一員だからであり、第三に、全国にまたがる裁判官の転勤システムのためである。
裁判官を外の世界から隔離しておくことは、裁判所当局にとって非常に重要である。裁判所以外に世界は存在しないようにしておけば、個々の裁判官は孤立した根無し草だから、ほうっておいても人事や出世にばかりうつつを抜かすようになる。これは、当局にとってきわめて都合のいい事態である。
 
私はこれまで、裁判官というのは裁判官を辞めても弁護士になれば食べていけるものと思っていました。しかし、裁判官は基本的に営業センスがないので開業などできませんし、すでに述べたように弁護士余りの時代ですから、弁護士事務所に雇ってもらうのも容易ではなく、多くの裁判官は現職にしがみつくしかないようです。
 
そのため、行政や立法に対する司法のチェック機能が問われるような事件について、裁判官が自分の考えによった、つまり日本の裁判官としてはかなり「思い切った」判決を出せるのは、たとえば現在のポストから上にも行かないし転勤もないと事実上決まった高裁の裁判長や、なんらかの理由によりやがて退官すると決意した裁判官ぐらいだということになります。
 
もっとも、著者が若かったころには、裁判官の間にはまだ「生涯一裁判官」の気概のある人もいて、そういう人を尊敬する気風もある程度存在していたのですが、2000年以降は裁判所の全体主義化が進んで、そうした気概や気風はほぼ一掃されてしまったということです。
 
裁判所が「精神的な収容所群島」になったために、心を病む裁判官がふえ、裁判官によるさまざまな不祥事が報道されるようになっています。たとえば痴漢行為、児童買春、盗撮、ストーカー行為、女性修習生に対するセクハラなどです。裁判官の数は3000人足らずであり、しかも高度専門職集団であることを考えると、不祥事の数は多すぎると著者はいいます。
 
以上のような精神構造の病理の根にあるのは、結局、人格的な未熟さであろう。私は、子どものような部分を持っている人間は好きだが、それは、老成した人格の中に子どものような純粋さや無邪気さ、好奇心、素直な共感の力などが残っている場合のことである。
裁判官の場合は、そうではない。ただ単に人格的に幼いのであり、聞き分けのないむら気でエゴイスティックな幼児性なのである。
感情のコントロールができず、すぐに顔色を変えることが、その一つの現れである。当事者が少し感情的な言葉を使ったときに、当事者のいない席で平謝りに謝る弁護士がいる。若いころ、どうしてそんなことをするのかなとやや不思議に思っていたのだが、後に、あるヴェテラン弁護士から、「それは、ちょっとでも気に障ると激高する裁判官が結構いるからです。それも、そのときだけならかまわないのですが、後から、訴訟指揮や和解で、さまざまな意地悪をして、報復してくる場合がある。ひどいときには、ねじ曲げた理由によって敗訴させられることさえある。そういうことがあるから、気の弱い弁護士は、当事者のちょっとした言動にも気を遣って平謝りに謝るのです」と聴かれさて、なるほどと納得した記憶がある。
 
著者は、裁判所を改革するには法曹一元化をはかる、つまり弁護士として経験を積んだ人間が裁判官になる制度がいいと主張します。確かにそれしか方法はないでしょう。
しかし、今の官僚機構や自民党政権がそうしたことをするはずはありませんが。
 
最後に、日本国民にとっての裁判所がどんなものであるかについての著者の言葉を引用しておきます。
 
私は、日本の国民、市民は、裁判所が、三権分立の一翼を担って、国会や内閣のあり方を常時監視し、憲法上の問題があればすみやかにただし、また、人々の人権を守り、強者の力を抑制して弱者や社会的なマイノリティーを助けるという、司法本来のあるべき力を十分に発揮する様を、まだ、本当の意味では、一度としてみたことがないのではないかと考える。