今さらながら「アナと雪の女王」(2D/日本語吹き替え版)を観てきました。
興行成績は250億円を越え、「千と千尋の神隠し」「タイタニック」に続く歴代3位になったというのも納得の出来でした。
 
もうすでに論じ尽くされていて、今さら私が付け加えることはないかなあと思いながらヤフー映画レビューを見ていると、ストーリーに不満な人が意外とたくさんいます。また、ほめている人も、このストーリーのほんとうのよさに気づいていないのではないかと思われます。
ということで、私のとらえ方にも独自のことがあるかなと思って、ストーリーについての自分の考えを書いてみます(以下はネタバレになります)
 
この物語は「王子さまのキスでお姫さまが救われる」という伝統的な物語の枠組みを踏襲していないので、そこを評価する人もいれば、不満な人もいるというのはわかります。しかし、この物語にはほかにも斬新なところがいくつもあります。
 
王女エルサは、触れるものは何でも凍らせる魔法の力を持っています。なぜ魔法の力を持っているかの説明はありませんし、妹のアナにそうした力はないので、持って生まれた性質、個性というしかありません。
ただ、個性とはいっても、常識で理解できる範疇を超えています。
ですからこれは、親にとっては発達障害みたいなものかもしれません。たとえばアスペルガー症候群の人は、特定の分野に驚異的な能力を発揮することがあり、それに似ています。
 
それが個性や発達障害なら親は受け入れるしかありませんが、エルサの両親は、魔法の力を危険なものととらえて、手袋をはめさせ、力を封じ込めようとします。
 
そして、エルサの両親はあっけなく海難事故で死んでしまいます。
死んでしまったあとは、すぐに忘れられてしまいます。「ご両親があなたに手袋をはめるように言ったのは、あなたを思ってのことですよ」などという面倒くさいシーンもありません。
幼い主人公の両親がこれほどあっけなく、なんの余韻もなく死んでしまう物語はこれまでなかったと思います。
 
この物語は、「王子さまのキス」に価値がないという点で画期的ですが、「親の愛」や「親の恩」に価値がないという点でも同様に画期的です。
 
エルサは親に言われた通りに魔法の力を封印しようとしますが、うまくいかず、とうとう戴冠式の日に魔法の力を暴走させてしまいます。そして、エルサは一人で山に向かいますが、そのとき、「ありの~ままで~」の歌の通りに、ありのままの自分を受け入れて生きていこうと決心し、これが前半のクライマックスになります。
 
 
しかし、エルサが魔法の力の封印を解いたために、王国が冬の世界になってしまいます。妹のアナはエルサを救い、冬を終わらせるために山に向かいますが、この時点で、どうすればエルサを救い、冬を終わらせることができるのかわかりません。エルサは自分でも魔法の力を制御することができないからです。
 
しかし、これは最終的にうまくいきます。アナは自分を犠牲にしてエルサを救おうとし、アナの愛を感じたエルサは、アナを救うと同時に、魔法の力をコントロールする術を身につけます。
ここのところは論理的にうまく説明できているとはいえず、ちょっと納得いかない感が残ります。
 
ともかく、アナの愛によってエルサは魔法の力をコントロールすることができるようになったわけですから、最初に戻って考えると、両親がエルサの魔法の力を抑えるのではなく、ありのままを受け入れていれば、エルサは魔法の力をコントロールすることができていたのではないかと想像されます。
 
つまりこの物語は、親が十分に子どもを愛することができなくても、姉妹が力を合わせて自立を勝ち取っていくことの感動を描いたものです。
 
もちろんそれだけではなく、後半は男と女の関係が中心に描かれます。
親子関係という縦軸と、男女関係という横軸から物語が成り立っているといえます。
ただ、男女関係というのは誰でも認識できますが、親子関係を認識できる人はほとんどいないので、私のこの記事が新しい認識を提供することになるかもしれないと思って書いてみました。
 
 
ところで、私はエルサが魔法の力を持っていることを発達障害にたとえましたが、発達障害に詳しい岡田尊司氏は「発達障害と呼ばないで」という著書において、「発達障害」は「非定型発達」と言い換えるべきだと主張しています。つまり「正常な発達」に対する「異常な発達」というとらえ方をするのではなく、人間にはさまざまな発達の仕方があり、その中のひとつだというとらえ方をするべきだということです。
 
また、発達障害とまではいえない普通の個性であっても、それを受け入れられない親がいて、子どもの個性を抑えつけたり矯正したりしようとしています。つまりエルサの境遇に共感できる要素は幅広く存在していて、それもヒットのひとつの理由かと思われます。