佐世保市で高校1年生の女子生徒が同級生の女子生徒に殺された事件の報道が過熱しています。
そのため、倉敷市の小学校5年生の女児が49歳の男に拉致監禁された事件はすっかり忘れられた格好です。
マスコミを支配する中年男にとっては、中年男の犯罪よりは女子高生の犯罪を報道するほうにやりがいがあるのでしょう(中年に限らず日本の男は女子高生が大好きです)
 
しかし、女子高生の犯罪の追及のしかたにも中年男のご都合主義が露骨に表れています。
 
これは未成年による犯罪です。となると、その責任は誰にあるのかという問題が生じるはずです。
 
たとえば、みのもんた氏の次男(当時31)が窃盗未遂容疑で逮捕されたとき、みのもんた氏がひどくバッシングされましたが、それに対して多くの有識者が「20歳すぎた子どもの行為に親の責任はない」ということを主張しました。とすると、そうした有識者は今回、「20歳未満の子どもの行為に親の責任はある」と主張しないといけないはずですが、そうした声はまったく聞こえてきません。
そもそもマスコミは、子どもの犯罪容疑でみのもんた氏をバッシングしたのですから、今回は殺人容疑で逮捕された少女の親をバッシングしなければならないはずですが、まったくそうしたことはありません。
新聞やテレビは、そもそも親の名前も職業すらも報道していません。
 
なぜそんなことになるかというと、加害少女の父親とマスコミの幹部や有識者は年齢が近く、社会的地位も似ているので、加害少女の親をバッシングすると、自分たちに返ってくるかもしれないからです
 
また、加害少女は小学校時代、給食に毒物を混入させたことがあり、そのときは加害少女と両親が被害を受けた子どもに謝ったそうです。もしこのとき親が「子どものやったことに親は関係ない」といって謝らなかったら、誰もが親を批判するでしょう。
ですから、今回の殺人事件についても、親は当然謝るべきですし、もし謝らなかったら批判されるのが当然です。
しかし、今のところ親は謝っていませんし、マスコミはそのことを批判しません。
 
いや、加害少女の父親は弁護士ですから、謝るのではなく、少女の弁護をするということもありえます。少女が殺人を犯したのは、こんな事情があったからで、情状酌量の余地があるということを世の中に訴えるのは、それはそれで父親としての役割です。
 
しかし、現実に父親はまったく表に出てきませんし、コメントも発表していません。
 
民事では、子どもが自転車事故を起こし、高額の賠償を命じる判決が出ていますが、これは当然親が責任を取って支払いをするわけです。
刑事の場合、親が責任を取らなくていいという理屈のあるはずがありません。
 
被害者遺族はマスコミを通してコメントを発表しています。なぜマスコミは加害者の父親のコメントを取らないのでしょうか。父親が拒否しているなら、なぜそのいきさつを報道しないのでしょうか。
もちろん、マスコミを支配する中年男もまた家庭では父親であって、父親の責任を追及すると、自分にも及んでくるからです。
 
もっとも、これは日本のマスコミだけの問題ではありません。近代という時代そのものが、親が子どもを自由に教育して、その責任を取らなくていいという、身勝手なおとながつくりだしたシステムなのです。
 
ところで、これまで私は便宜上、親の「責任」という言葉を使ってきましたが、父親の責任を追及するべきだと考えているわけではありません。私はそもそも、このような犯罪の場合、加害者の責任を追及することが間違いだと考えているのです。ですから、同様に父親の責任を追及するのも間違いということになります。
 
世の人々は、加害少女の責任を追及するだけでは飽き足らず、さらに父親の責任も追及しようとしています。そうすると、父親も身を守るために表に出てこなくなります。
 
今たいせつなのは、「責任」を追及することではなく、なぜこのような犯罪が起きたのかという「事実」を追究することです。
父親は娘が小さいころから教育・しつけをしてきたはずです。父親は娘から金属バットで殴られて大ケガをしたということですから、教育・しつけが間違っていたのでしょう。どのような教育・しつけをしたのか、それを明らかにすることは、すべての人にとって参考になるはずです。
マスコミはそういう報道をするべきです。