インターネットがなければ得られない有益な情報というのは意外と少ないものですが、犯罪者本人による詳細な供述というのは、その数少ないひとつといえます。
  
「黒子のバスケ」脅迫事件の渡邉博史被告は、まれに見る文章力の持ち主で、彼の書いた文章が月刊「創」編集長の篠田博之氏の手によって次々とネット上に公開されています。これを読むと、犯罪者が決して生まれつきの特別な人間ではなく、ただ悲惨な人生を歩んできただけであることがわかります。
 
渡邉博史被告の文章が最初に公表されたのは、今年の3月、初公判の被告人意見陳述書としてでした。これはかなりの反響を呼びました。
 
「黒子のバスケ」脅迫事件の被告人意見陳述全文公開1
 
「黒子のバスケ」脅迫事件の被告人意見陳述全文公開2
 
私もこれを読んで、ブログに次の記事を書きました。
 
朝日新聞の犯罪報道の不可解
 
私は渡邉被告の家庭での虐待と学校でのイジメ体験が渡邉被告の人格形成に決定的な影響を与えたと考え、「愛のない家庭で育った人間」と書いています。
 
しかし、私のようにとらえた人はほとんどいませんでした。多くの人は、格差社会が生んだ犯罪というふうにとらえたようです。渡邉被告自身が『いわゆる「負け組」に属する人間が、成功者に対する妬みを動機に犯罪に走るという類型の事件は、ひょっとしたら今後の日本で頻発するかもしれません』とか『そもそもまともに就職したことがなく、逮捕前の仕事も日雇い派遣でした。自分には失くして惜しい社会的地位がありません』とか書いているので、そう理解されてもしかたないかもしれません。この時点では、渡邉被告自身の考えが固まっていなかったのです。
 
しかし、その後、弁護人が差し入れた、子ども時代に虐待されたためにうつ症状になった人について精神科医の書いた本を読んだことが大きなきっかけになったのでしょう。渡邉被告は先の意見陳述を撤回し、改めて最終意見陳述を公開しました。
 
最終意見陳述は長文のため6分割されているので、記事一覧から読んでください。
 
篠田博之 月刊『創』編集長 記事一覧
 
渡邉被告は、自分がこのような人間になったのは、格差社会よりも両親による虐待と学校でのイジメが決定的だったという認識を述べています。
ところが、この文章について世の中の反応はまったくといっていいほどないようです。
世の中の人々は、犯罪の原因が格差社会だとかアニメやビデオだとかいうと食いついてきますが、虐待やイジメだというと、黙って背を向けてしまいます。
 
ところが、ここに食いついてきた人がいました。秋葉原通り魔事件の加藤智大被告です。
加藤被告は死刑判決を受け、現在は最高裁へ上告中の身ですが、渡邉被告の最終意見陳述を読んで共感したということで、弁護人を通じて篠田編集長に自分の見解を書いて送ってきたのです(これも「記事一覧」から読めます)
 
加藤被告は、週刊誌の報道によると、子どものころ母親にご飯を床の新聞紙の上にぶちまけられ、それを食べさせられたということで、はやり親による幼児虐待を経験した人間ですが、当時の報道は、派遣切りにあったことや、携帯サイトの掲示板で批判されたことと犯罪の関係を論じるものがほとんどでした。
 
渡邉被告も加藤被告も、世の中から犯罪の理由をわかってもらえず、それだけに2人で通じ合えるものがあるようです。
 
世の人々や有識者の認識よりも凶悪な犯罪者の認識のほうが正しいとしたら皮肉な話です。
 
渡邉被告の最終陳述は長文ですから、読む人はあまりいないでしょう。最後のあたりから重要と思われる部分を引用しておきます。
 
 
せっかくの機会ですので、世の中に対して真剣に申し上げたいことが幾つかございます。
 
昨今は虐待に関する学問的研究はかなり進んだと思います。またいじめに関するそれも同様だと思います。世の中には虐待といじめを同時に受けている子供も多いはずです。この2つが合わさると相互に作用して子供の心に与える悪影響は甚大なものになると思います。自分は寡聞にして虐待といじめの両方を受けた子供の状態についての学問的知見を聞いたことがありません。また虐待の専門家といじめの専門家の学際的交流もあまり聞いたことがありません。虐待死といじめ自殺は子供の2大死因です。是非ともこの2つの悲劇の関連性や相互作用についての学際的研究を進めて頂くことをお願いしたいと思います。
 
いじめについても申し上げます。いじめと申しますと学校でのいじめが話題の中心ですが塾でもいじめはあります。自分は小5から通わされた塾でいじめられて、それが自分の対人恐怖と対社会恐怖を決定的に悪化させてしまいました。自分は塾の講師の真似事をしたことがありますが、そこでもいじめを発見しました。いじめっ子にかなりきつい口調で注意したところ塾の校長から「注意の口調がきつ過ぎる」と厳重注意を受けてしまいました。塾でのいじめは社会がその存在を把握しているのかどうかすら怪しい情況です。是非ともしかるべき機関に実態を調査して頂くことをお願いしたいと思います。自分は10年以上が過ぎた今でも、いじめられていた子の表情が忘れられないのです。
 
虐待についても申し上げます。「虐待」という言葉は英語のabuseの訳語abuseの本来的な意味は「濫用・乱用」です。drug abuseは「薬物乱用」です。ですからchild abuseの正確な翻訳は「子供乱用」です。虐待の本質とは「両親が自身の欲望の充足のために子供を乱用する」ということです。自分は「虐待の本来の意味は乱用」という理解が社会に共有されることを切に望みます。この理解が社会に共有されないと、日本人が子供が死に至るまでの身体的虐待かネグレクトしか虐待として認識できない状態がいつまでも続きます。
 
あと「心理的ネグレクト」という虐待カテゴリーの存在を広く社会に認識して頂きたいと思います。通常のネグレクトとの違いを説明します。子供が病気になっても両親がそれに気がつかず病院に連れて行かないのがネグレクトなら、病院に連れては行くが全く心配をせず「大丈夫かい?」の一声もかけないのが心理的ネグレクトです。充分な食事を与えないのがネグレクトなら、食事を与えても餌を与えるかのように出し「美味しいかい?」の一声もかけないのが心理的ネグレクトです。
 
自分の小学校の卒業遠足はディズニーランドでしたが自分は参加していません。風邪をこじらせて寝込んでいたからです。母親は自分に「遠足の積立金がもったいない」と繰り返しましたが「遠足に行けなくて残念だったね」とは一言も言いませんでした。このようなことが乳幼児期から積み重なると「遠足が楽しい」という感情を持てなくなるのです。この頃の自分は既に認知が壊れていたので、熱でフラフラになりながらも遠足に行かずに済んだことを喜んでいました。
 
両親との心理的な交流がないと子供は何が好きで、何が美味しくて、何をガマンしないといけないのかが、よく分からないままに育ってしまいます。つまり自分の意志を持つことが困難になるのです。これが「心理的ネグレクト」です。これを受けた子供は原因を把握できないまま物凄い生きづらさを抱えることになってしまいます。
 
さらに申し上げれば「被虐うつ」の存在も広く社会に認識して頂きたい。「被虐うつ」とは虐待を経験した大人が罹患する特殊なうつ病です。症状が非定型的で、なおかつ薬があまり効きません。きっと自覚のないままに苦しんでいる方々は多いと思うのです。
 
虐待により子供の脳に器質的、機能的な変化が引き起こされることが脳科学の研究の発展により判明しつつあります。器質的変化とは脳の形や構造そのものの変化、機能的変化とは脳の働きの異常です。虐待を受けた子供は脳の脳梁、海馬、前頭前野、後頭葉などに異常を抱えてしまうのです。
 
もし両親からの虐待によるケガが原因で足に障害が残った子供が普通の子供と同じように走れなくても、そのことを責める人間は少ないと思います。しかし脳の障害は見えません。障害を抱えていても普通の子と同じようにできなければ周囲から責められます。これはとんでもない悲劇だと思います。
 
刑事裁判において虐待やいじめの話が出ると必ず「で、それが何?自分も虐待されたしいじめられたけど犯罪なぞしていない!そういう物言いこそ虐待経験者やいじめ被害者に対する最大の侮辱だ!」などと主張する虐待経験者や元いじめられっ子がぼっとん便所に涌いた蛆虫の如くヤフーコメントやミクシーに大量発生します。自分はこのような「自称」虐待経験者や「自称」元いじめられっ子に向けて申し上げているのではありません。大変な生きづらさを抱えているのにその原因を把握できずに苦しんでいる方々に申し上げているのです。自分も生きづらさの原因が全く分からなかったために、このような事態に至ってしまいました。自分はつい最近まで小学校時代の6年間が地獄だったとはあまり認識していませんでしたし、母親が子供にその容姿について罵倒することは、どんな親子でも普通にされる会話だと思っていました。子供時代の体験をずっと引きずったまま行動していた自覚もありませんでした。生きづらさからの回復はまず原因の把握からスタートするのです。
 
現在の日本の普通の人たちの多くも、正体不明の生きづらさを抱えているのではないかと思います。その原因は多くの人たちが無意識裡に抱える対人恐怖と対社会恐怖に由来すると思います。例えば溺れた人は水に恐怖を抱きます。電車の事故に巻き込まれた人は電車に乗れなくなります。道を歩いていて強盗に襲われた人は現場となった道を通れなくなります。この水や電車や道を人や社会と置き換えれば、人間が抱く対人恐怖や対社会恐怖の困難さを理解して頂けると思います。ましてや社会を覆う茫洋とした恐怖の解消方法など自分には見当もつきません。ただ国家の物語がやたら肯定的になっても、それによって自動的に各個人の自己物語が肯定的に書き換えられることはないとだけ断言できます。
 
「生きる力」とは何か?自分はここまで堕ちた人間ですから、それが何かがはっきりと分かります。それは根源的な「安心」です。「安心」があれば人間は意志を持てます。自分の意志があれば人間は前向きになれます。「安心」が欠如し、強い対人恐怖と対社会恐怖を抱き、肯定的な自己物語を持てない人間が「生きる力」がない人間です。
 
子供に「生きる力」を授けられるのは両親かそれに代わる養育者のみです。学校教育で子供に「生きる力」を身につけさせることは不可能です。学校は「生きる力」の源である「安心」を毀損する事故の多発地帯です。事故とはいじめや教師の理不尽な体罰です。学校にできることはこの「安心」を毀損する事故の防止や被害の拡大の阻止だけです。
 
自分が卒業した高校にアメリカ人の講師がいました。日本在留期間もそれなりに長いのに日本語はさっぱりでした。その講師は口を開けば”Dont be shy!”(恥ずかしがるな!)と言っていました。ずっと萎縮しきった人生を送ってしまった結末として、この事件に至ってしまった自分と致しましては、日本中の前途ある少年たちに”Dont shrink!”(萎縮するな!)と声を大にして申し上げたいです。萎縮していたら男子バスケ部にも入れませんしイケメンにもなれません。