国連人種差別撤廃委員会は8月29日、ヘイトスピーチを法的に規制するよう日本政府に対して勧告を行いました。これまでもヘイトスピーチの法的規制について議論が行われてきましたが、この勧告によっていよいよ現実のものとなりそうです。
 
確かに日本は人権意識が低く、ヘイトスピーチが横行するという現実があります。たとえば慰安婦問題にしても、朝日新聞の誤報と強制連行ばかりが問題になっていて、慰安婦の人権について論じる人がほとんどいないのは驚くべきことです。
また、自民党はヘイトスピーチへの対策を検討するプロジェクトチームの初会合において、デモに対する規制も併せて議論する方針を確認したということです。まるで火事場泥棒ですが、これも人権に対する認識の低さを示しています。
 
新大久保のヘイトスピーチデモなどで傷ついている人がいるので規制すべきだという意見にはある程度説得力がありますが、こうした規制はあくまで対症療法です。肺炎で熱が出ている患者に解熱剤を処方しても肺炎が治るわけではありません。かえって悪化させてしまうかもしれません。
 
日本はヘイトスピーチ規制が遅れているといわれますが、では、進んでいる国はどうなのでしょうか。
 
ヘイトスピーチという言葉はアメリカで使われだしたそうです。アメリカでは法的規制こそありませんが、ポリティカルコレクトネスという考え方が強く、ヘイトスピーチには強い社会的制裁が加えられます。しかし、それによって差別が少なくなるかというと、そんなことはありません。つい最近もミズーリ州で黒人少年が警官に射殺されたことをきっかけに暴動が起き、黒人差別が依然深刻であることが浮き彫りになりました。
ヨーロッパでも、移民排斥が強まり、極右政党やネオナチが勢力を拡大しています。
 
ヘイトスピーチ規制はあくまで差別表現を規制するだけですから、差別心は温存されます。
表現が抑えられた差別心は、内圧が高まって、もっとひどい形で吹き出すかもしれません。
 
差別心そのものをなくす方法がわからないので、代わりに差別表現をなくそうというのは、規制する側の単なる自己満足です(児童ポルノ規制も同じ論理です。変態性欲をなくす方法がわからないので、代わりに表現をなくそうということです)
 
「レイシストをしばき隊」のような反ヘイトスピーチ運動も似たようなものです。
いや、もっとひどいかもしれません。ヘイトスピーチ運動も反ヘイトスピーチ運動もやっていることは同じです。「ミイラ取りがミイラになる」という言葉そのままです。
 
私の考えとしては、ヘイトスピーチは規制するよりも、自由にさせて、それを批判したほうがいいと思います。
ヘイトスピーチというのは、陰謀論のような根拠のないことや、非科学的なことや、矛盾したことの塊なので、自由にしゃべらせて、それを批判したほうが効果的です。
 
ヘイトスピーチによって傷つくという問題ですが、人は尊敬している人や重要な人から批判されると傷つきますが、自分が見下している人間から批判されても平気なものです。自由にしゃべらせて、それがバカバカしいことだとわかれば、傷つかなくなるはずです。
 
根本的なことをいえば、ヘイトスピーチというのは憎悪の感情に基づくものですから、愛によるしかなくす方法はありません。
政治の世界は愛については不毛の世界なので、なかなか展望は開けませんが(「愛国心」というのは愛ではなくて「国家規模の利己心」のことです)