高倉健さんが亡くなりました。
私も健さんの映画はずいぶん観てきました。昔は封切りで観たことはあまりなく、たいていは名画座の3本立てやオールナイト上映です。ヤクザ映画には場末の映画館がよく似合いますし、ヤクザ映画特集のオールナイト上映には独特の熱気があって、笑ったり拍手したりで観客同士の連帯感も味わえました。
 
健さんとヤクザ映画は切っても切り離せません。昨年、文化勲章を受章したとき、本人もテレビの前で「やってきたのはほとんど前科のある役ですが」と語っていました(「幸福の黄色いハンカチ」も出所したばかりの男でしたし)
 
考えてみれば、昔の映画の主人公の多くは、ヤクザや犯罪者でした。石原裕次郎や小林旭が演じたのも、たいていは一匹オオカミのヤクザ者です。「明日に向かって撃て!」や「俺たちに明日はない」はもろにギャングが主人公です。
ですから、観客はヤクザや犯罪者に感情移入して観ていたわけです。
 
昔は「ヤクザ=悪」という考え方はありません。
昔のヤクザ映画の基本は、昔気質の「よいヤクザ」がいて、そこに政治家などとつるんだ儲け主義の「悪いヤクザ」が進出して抗争になるというものです。
その後の実録路線は「悪いヤクザ」ばかりになります。それでも、観客はヤクザに感情移入して観ていました。
 
しかし、伊丹十三監督の「ミンボーの女」になると、大きな転換が起きます。観客は「悪いヤクザ」を外側から見るようになるのです。
「ミンボーの女」が公開された1992年には暴力団対策法が施行されています。ですから、警察司法の考え方が映画の世界にも入ってきた格好です。
 
今では警察司法の考え方が世の中をおおっています。ヤクザは暴力団と名前を変え、「暴力団=悪」となっています。
また、「入れ墨=悪」という考え方も広まっています。これも警察が広めたものです。
「入れ墨=悪」という考え方を持っている人は、健さんの唐獅子牡丹に拍手するわけにはいかないでしょう。
 
今では健さんのヤクザ映画を否定的に評価する人もいるかもしれません。
今のテレビはヤクザ映画をやらないので、若い人は健さんのヤクザ映画を知らず、評価する以前かもしれませんが。
 
今の若い人は、ヤクザや犯罪者に感情移入するのはおかしいと思うかもしれません。
しかし、そこにはそれなりの論理があります。
健さんたちの「よいヤクザ」は、決して弱い者をいじめません。むしろ弱い者を守ろうとします。「悪いヤクザ」は弱い者の商売のじゃまをし、土地を取り上げ、そこに歓楽街をつくろうとしたりするわけで、そこが決定的に違います。
犯罪者が主人公の映画も、銀行ギャングなどはしますが、貧しい人の金品を奪うようなことはしません。
 
「弱い者イジメはしない」
「強い相手と戦う」
 
こういう原理が貫かれているから、観客はヤクザや犯罪者に感情移入したわけですし、全共闘世代からも支持されたわけです。
 
今は、そうした原理よりは法律や規則が優先されるようになっています。「入れ墨=悪」と決められたために、結果的に弱い者イジメになってしまうこともあります。
 
ヘイトスピーチというのも、要するに弱い者イジメです。
 
政府は健さんに国民栄誉賞を授与する検討に入ったという報道があります。
政府は健さんのヤクザ映画をどう評価するのでしょうか。
 
今の時代、健さんの「死んでもらいます」という决め台詞は誰に向けられるのでしょうか。