ピースおおさか(大阪国際平和センター)の展示が「自虐的」だと批判され、現在展示内容の見直しが行われています。
それについて映画監督の森達也氏は次の文章を書いています。
 
自虐史観と呼びたければ呼べばよい。
でも、加害の記憶から目を背けてはいけない
 
長い文章ですが、要するに加害の歴史を記憶に刻むことのたいせつさを主張しています。
その主張には私も同感ですが、タイトルにある「自虐史観と呼びたければ呼べばよい」というところに引っかかります。こういうことを言っていては、自虐的だと批判している人はますます言うようになるかもしれません。
少なくとも、批判をはね返すような勢いが感じられません。
今、「自虐的」という言葉を使う歴史修正主義者の勢いが強いので、土俵際に追い詰められている格好です。
 
「自虐」という言葉は歴史修正主義者が好んで使う言葉で、歴史認識問題におけるキーワードといってもいいでしょう。
 
では、「自虐史観」批判をする歴史修正主義者は、自分の立場をどういう言葉で表現しているでしょうか。
日本における歴史修正主義者の元祖ともいうべき人物は藤岡信勝氏ですが、藤岡氏は自分の立場を「自由主義史観」と表現していました。これは「マルクス主義史観」に対する言葉です。しかし、今「自由主義史観」を標榜する人はまったくといっていいほどいません。
そして、それに代わる言葉はありません。
ということは、「自虐史観」を批判する人は、自分の立場を明らかにしていないのです。
 
自分の立場を明らかにしないというのはひじょうに有利な状況です。人から批判されることがないからです。
 
そこで私は、「自虐史観」を批判する人の立場を「自尊史観」と名づけたことがあります(一水会の鈴木邦男氏も「自尊史観」という言葉を使っていました)
 
しかし、最近考えが変わってきて、「自慢史観」のほうがより適切な表現ではないかと思うようになりました。
最近、「日本はこんなにすごい」ということをいうテレビ番組や本がいっぱいあるからです。
 
自慢する人というのは、本人はいい気分なのでしょうが、はたの人にすると不愉快なものです。日本もそういう国になっていないかと戒めるためにも「自慢史観」のほうが適切ではないかと思います(ほかに「自慰史観」という言葉もありますが、これは一般には普及しないでしょう)
 
そして、よく考えてみると、「自虐」の反対語はもうひとつあります。
それは「他虐」です。
 
「自虐史観」はけしからんという人は、必然的に「他虐史観」になります。
つまり、中国はけしからん、韓国はけしからん、アメリカはけしからんということになっているわけです。
 
「自虐史観」対「他虐史観」というふうにとらえると、正しいのはその中間にあるということがわかります。
 
当たり前の話ですが、正しい認識は自国にも他国にも中立・公正なものでなければなりません。
こういう当たり前の話がほとんどできていないのではないかと思います。