朝日新聞に「人類の未来のために」と題された人類学者の川田順造氏のインタビュー記事が載っていました。
川田氏は西アフリカ内陸の無文字社会に調査に行ったときの体験を語り、その中に、民話についての常識的な見方をひっくり返す部分があって、びっくりしました。
 
 
「初め私は、文字を持つことを人類の歴史の上で一つの達成とみて、無文字社会がその達成のない段階と考えていました。しかし彼らと暮らすうち、コミュニケーションが実に多様で豊かなことを知り、『文字を必要としなかった』とも思い至ります。むしろ、文字に頼り切った私たちが忘れているものを思い起こさせられました」
 
 「今でも思い出すのは、農閑期の夜、熾(お)き火を囲み、子供たちがお話を皆に聞かせるときの、素朴な喜びの表情です。昼間は大人にこき使われていた子供たちのどこから、こんな傑作な話が、いきいきした声で出てくるのか。文字教育で画一化されていない『アナーキーな声の輝き』と私は呼びました。録音を日本に持ち帰って友人に聞かせたら、声の美しさにみな驚きました。伝える喜びに満ちた躍動がありました」
 
 ――聞いてみたくなる声です。アフリカ。干ばつや飢餓、内戦など、自然や社会環境の厳しさというイメージが強いですが。
 
 「そうした話題でないと新聞記事になりにくいですからね。多くの人々は強大で荒々しい自然にうちひしがれ、受け身ながらも、日々をしぶとく楽しんでいます。野生植物を巧みに利用して生き抜く知恵のすばらしさ。富は分け合うものという了解もあった。最終的に私は、人々の驚くべき生命力と、おおらかな自己肯定感に感嘆せずにいられないのです」
 
 
子どもがお話をみんなに聞かせているというのにびっくりしたのです。
お話というのは、年寄りや親が子どもに聞かせるものだと思っていたからです。
「遠野物語」にしても「グリム童話」にしても、年寄りや親が子どもに語り聞かせ、それが代々受け継がれてきたものだと思っていました。
 
しかし、考えてみれば、伝承されてきた民話にしても、最初は誰かが話をつくったわけです。
誰がつくったかというと、おそらく年寄りではないでしょう。小さな子どもを持つ親がつくったのかもしれません。しかし、それよりも子どもがつくった可能性のほうが高い気がします。桃から子どもが生まれるとか、サルとカニが喧嘩するとか、子どもの奔放な想像力の産物ではないでしょうか。
 
現にアフリカの無文字社会では、子どもが話をつくっているわけです。
これは民話とかおとぎ話というより、多くは個人的な体験に基づく「すべらない話」みたいなものかもしれません。
しかし、たくさんの話がされるうちに、平凡な体験の話は伝承されず、創作でもおもしろい話が伝承され、そこに因果応報とか、欲張りはよくないとかの、おとなの好む教訓が入って、民話となっていったのでしょう。
 
 
では、現代の子どもは話をつくっているでしょうか。
学校では自由題の作文を書いているでしょう。しかし、これは先生に評価されるために書くわけですから、書いていても少しも楽しくないはずです。
 
アフリカの無文字社会では、子どもの語る話を周りの子どもやおとなたちが喜んで聞き、だからこそ子どもも喜びの表情で、生き生きした声で語るわけです。
 
近代社会というのは、子どもは労働者や兵士やエリートに仕立て上げられるだけの存在で、子どもの創造力が生かされるとか、子どもがなにかを発信するということのない社会です。
「口裂け女」や「白いメリーさん」みたいな“現代の民話”と称されるものはありますが、インパクトの強さで伝承されているだけで、たぶん子どものつくった話ではなく、子どもの喜ぶ話でもありません。
 
社会の停滞感を打ち破るためにも、「子どもの創造力」を見直すべきではないかと思いました。