フランスの風刺新聞「シャルリー・エブド」がムハンマドの風刺画を載せたことについて、いまだに賛否両論がありますが、私はこれを理解するためにわかりやすいたとえを思いつきました。
 
たとえば、シャルリーが身体障害者を風刺する絵を載せたとしたらどうでしょうか。それは差別だとして、誰もが反対するはずです。
では、身障者を風刺する絵を載せたことに対して、過激派身障者団体があって(ないと思いますが)、シャルリーの編集部内で銃を乱射するテロ事件を起こしたらどうでしょうか。シャルリーが再び身障者を風刺する絵を掲載することに賛成したり、「私はシャルリー」と言ったりするでしょうか。
 
身障者とイスラム教徒は別だといわれるかもしれませんが、フランスにおいてイスラム教徒は少数派で、差別されていますから、被差別者という点では同じです。
また、国際社会においても、アメリカとヨーロッパが支配的な立場にあって、イスラム国のほとんどは中進国か後進国で、見下されています。
 
つまり、欧米のキリスト教徒はイスラム教徒やイスラム国を差別しているのです。
 
ところが、差別というのはいつもそうですが、差別する人間は自分が差別しているという自覚がありません。
 
たとえば、公民権法が成立する以前のアメリカ南部では、黒人はレストランはもとより待合室やバスの席まで白人と区別されていましたが、ほとんどの白人はそれが当たり前と思っていて、差別という意識はありません。
そして、日本人はというと、名誉白人扱いされることに、多少は複雑な思いがあっても、満足していたわけです。
 
今の日本人も、欧米のキリスト教徒のイスラム教徒に対する差別を見ても、自分はキリスト教徒の側に立っていると思っているからか、それを差別とは認識していません。
 
イスラム過激派のテロの根本原因はイスラム差別にあるのですが、欧米も日本もイスラム差別を認めないので、テロの原因がわかりません。テロの原因がわからないでテロ対策をしているわけで、うまくいくはずがないわけです。
 
イスラム差別の具体的な現れは、イスラム教徒の命の軽視です。イスラム教徒はたくさん死んでもほとんどニュースにならず、欧米人は少数の死でも大きなニュースになります。
ですから、漫然とニュースを見ていると、どんどん差別主義に染まっていくのです。
 
それでも、たまにはマスメディアにも真実を見せてくれる記事が載ります。次は、フリージャーナリストの土井敏邦氏のインタビューの一部です。
 
(言論空間を考える)人質事件とメディア 土井敏邦さん、森達也さん
 <萎縮は自殺行為> 紛争の現場に行くと、遠い日本では見えなかった、現地の視点が見えてきます。今回の事件の最中、積極的平和主義を唱える安倍晋三首相は、イスラエルの首相と握手をして「テロとの戦い」を宣言した。しかし「テロ」とは何か。私は去年夏、イスラエルが「テロの殲滅(せんめつ)」を大義名分に猛攻撃をかけたガザ地区にいました。F16戦闘機や戦車など最先端の武器が投入され、2100人のパレスチナ人が殺されました。1460人は一般住民で子供が520人、女性が260人です。現地のパレスチナ人は私に「これは国家によるテロだ」と語りました。
 
 そのイスラエルの首相と「テロ対策」で連携する安倍首相と日本を、パレスチナ人などアラブ世界の人々はどう見るでしょうか。それは、現場の空気に触れてはじめて実感できることです。
 
イスラエル軍に殺されるパレスチナ人のことは、日本では小さいニュースにしかならず、話題にもならないということは、日本人がいかにイスラム差別に染まっているかということです。
 
欧米人はみずからの差別意識になかなか気づかないでしょう。
中国は新疆ウイグル自治区などをかかえているので、この問題には中立ではありません。
ですから、日本がいちばんいい位置にいるはずなのですが、安倍首相はもとよりマスメディア、ほとんどの知識人が欧米寄りなので、むしろイスラム差別に加担することになっています。