川崎市で中学1年生の上村遼太君が殺された事件で、少年3人が逮捕され、どうやら犯行を認める供述を始めたようです。
 
この事件について世の中はずっと大騒ぎしていました。被害者が中学1年生という若さだったことと、カッターで首や顔を切るという残忍な手口だったこと、そしてそれがイスラム国の手口を真似たものらしいことなどが騒がれた理由でしょうが、それだけとも思えません。
 
この事件は、容疑者が特定される前から、明らかに不良少年グループにおける犯罪と思われました。ですから、おとなたちは自分とは無関係だという思いで騒いでいられたのでしょう。
たとえば、自民党の稲田朋美政調会長はこの事件を受けて、「少年犯罪がひじょうに凶悪化している」「犯罪を予防する観点から、今の少年法のあり方でいいのか」と語り、少年法の見直しを示唆しました。
少年犯罪が凶悪化するどころか年々減少していることは今では常識です。稲田政調会長はこの事件に悪乗りするおとなの典型です。
 
この事件に対する反応は、テロに対する反応に似ています。つまり、ゴキブリを見つけて叩いているみたいなものです。近視眼的で、事件の背景を見ようとする視点がありません。
 
これは少年が少年を殺した事件ですから、本来はおとなの責任、とりわけ親の保護責任と監督責任が問われるところです。
被害少年は顔にアザをつけていたり、バスケ部の練習に行かなくなったり、学校に行かなくなったりしていたわけですが、母親はなにもしませんでした。
加害者側の18歳の少年は、学校を辞めて、無職で、仲間と集まって酒を飲んだりしていたわけですが、親はそれに対してどういう態度をとっていたのでしょうか。
 
世の中には、加害少年を非難するだけでは足りないので、その親もいっしょに非難しようという人たちがいますが、私はそういうことを勧めているのではありません。
逆に、親にも問題があるのだから、加害少年ばかり非難するのは間違っているといいたいのです。
 
月並みな言い方ですが、人間は1人で生きているのではなく、互いに支え合って生きています。誰か1人が問題行動を起こしたら、それはその人間だけの問題ではなく、周りの人間の問題でもあるわけです。
とりわけこのケースでは、親元にいる未成年なのですから、本人よりもむしろ親に原因があるといってもいいぐらいです。
 
たとえば被害少年の母親はシングルマザーで、生活が苦しく、生活保護の相談にも行っていたということですから、子どもに十分に注意がいっていなかったのでしょう。そういう場合はどうするべきかといった議論をすることが生産的です。
 
しかし、世の中のおとなたちにとって、親の問題は自分自身の問題でもありますから、そこには触れたくないわけです。
そのために報道も少年の問題としてとらえ、もっぱら犯行の残虐さなどを強調する方向に行っています。
これは、イスラム国などのテロの報道と同じ構図です。
 
残虐さに目を奪われ、犯人を非難するだけで思考停止するのでは、犯罪もテロも防ぐことはできません。