北野武著「新しい道徳」(幻冬舎)を読みました。
 
「はじめに」という前置きがあります。
そこには「他人の書いたことを鵜呑みにする性癖のある読者は……これから先は読んではいけない」「これから書くのは、あくまでも俺の考えだ。その考えを誰かに押しつけるつもりはまったくない」「なんだかおかしいなあと思うから書いただけだ」というふうに、毒舌家の北野氏にしては珍しく謙虚な姿勢が打ち出されています。道徳を批判することに対するタブー意識がそれだけ強いということでしょう。
 
「道徳はツッコみ放題」というのが第1章のタイトルですが、これは全編にわたってのテーマでもあります。学校の道徳の教材を初めとして世の道徳に対してどんどん突っ込んでいきます。そこを紹介しましょう。
 
文部科学省の小学1・2年生の道徳の教材には「自分を見つめて」と書いてあるが、これがおかしいといいます。子どもに必要なのは、虫だのカエルだのを追いかけ回したり、野球やプロレスごっこをしたりして、好き勝手に遊ぶことだ。子どもはそこからいろんなことを学ぶ。小学1年生が自分を見つけるわけがないというわけです。
それから、「いちばんうれしかったことを書きなさい」というのもおかしい。そういうのは年を取ってから、昔を振り返ってすることだ。子どもに昔を振り返らしてどうしようっていうんだ。
 
道徳の教科書にはやたら老人とゴミが登場すると北野氏は言います。年寄りに席を譲る。年寄りの荷物を持ってやる。年寄りの道案内をする。道に落ちているゴミを拾う。ゴミを分別して出す。誰かが道にゴミを捨てたら注意する。老人とゴミが、子どもになにかいいことをしろと教えるときの定番になっているのです。
そうすると、老人とゴミはいっしょで、老人は社会の邪魔者だと思う子どもがふえてもしかたがない。
それに、老人だから善人とは限らない。刑務所の中は老人でいっぱいだ。重い荷物を持っているじいさんに声をかけて、家まで運んでやった子どもがそのまま家の中に連れ込まれたら、老人に親切にしろと教えた先生はどうするんだ。
やっぱり毒舌も好調です。
 
道徳はフラクタルだと北野氏は言います。つまり大きい世界の道徳も小さい世界の道徳も相似形のはずだと。
子どもに仲良くしましょうと教えているなら、国と国だって仲良くしないといけない。「隣の席のヤツがナイフを持ってるので、僕も自分の身を守るために学校にナイフを持ってきていいですか」って生徒が質問したら、「それは仕方がないですね」と答える教師はいるわけない。だとしたら、隣の国が軍拡したから我が国も軍拡しようという政策は道徳的に正しくないことになる。いかなる理由があっても喧嘩をしてはいけないと子どもに教えるなら、いかなる理由があっても戦争は許されないということになる。
ところが、おとなたちは戦争は必要悪だとか、自衛のための戦争は許されると言ったりする。もしそれが正しいのなら、子どもにも喧嘩をするなと教えるな。道徳はフラクタルなのだから。
 
さすがに北野氏は鋭く突っ込んでいます。
 
それから北野氏は、道徳は時代によって変わると言います。バブルの時代を経て、若くしてIT長者になることが可能な時代になると、農耕時代のような勤勉の道徳は通用しない。今、ノロマなカメでもコツコツ努力すればウサギに勝てるなんていう幻想を子どもに植えつけたら、まじめなカメはみんな頭のいいウサギの食い物になってしまう。
この指摘も鋭いです。
 
結局、本書の結論は、「道徳がどうのこうのという人間は、信用しちゃいけない」ということと、「道徳は自分でつくる」ということです。
 
私はその結論にだいたい賛成ですが、少し突っ込んでおきます。
 
北野氏は、支配者が庶民に押しつける道徳と親が子に伝える道徳は違うと言います。
北野氏の母親は「食べ物が美味しいとか不味いとかいうのは下品だ」とか「行列に並んでまで食い物を喰うのは卑しい」と教えたそうで、北野氏はその“道徳”を肯定しています。だから、今でも行列には並ばないし、奥さんの料理にも「うまい」と言わないのだそうです。
これはおかしな話です。道徳はフラクタルだと言ったことと矛盾しています。それに、奥さんが心を込めてつくったおいしい料理にも「うまい」と言わない“道徳”がいいわけがありません。
 
北野氏ほどの人でも、自分の母親のことになると客観視できないのです。
 
それから、「道徳は自分でつくる」といったって、どんな道徳をつくってもいいわけではありません。正しい道徳をつくらなければいけないわけで、そのためのヒントや方向性を示さないのは不十分です。
 
今の道徳がどのようにしてつくられたかは、北野氏自身も書いています。
「道徳は社会の秩序を守るためのもの……といえば聞こえはいいけれど、それはつまり支配者がうまいこと社会を支配していくために考え出されたものなんだと思う」
「道徳は時代によって変わる。
誰が変えるのかといえば、もちろん力を持っている奴だ」
「戦争の勝ち負けと、どちらが正しいかは別問題だと思うけれど、現実には勝った方の正義が通って、負けた方は間違っていたってことになる」
 
つまり道徳とは、力のある者に都合よくできているのです。ですから、自分なりの道徳をつくるとすれば、そこのところを訂正するべきだということになるでしょう。
私は「弱きを助け、強きをくじく」という道徳を最上位に位置づければいいのではないかと思っています。
 
私の考えとは少し違いますが、道徳についてこれほど深く考えた本はまずないでしょう。きわめて読みやすく、ためになります。