北野武著「新しい道徳」は、道徳について深く考察していて、もしかして道徳に関する本としては世界最高水準かもしれません。
朝日新聞の書評でも精神科医の斎藤環氏が「『道徳』の授業の副読本として強く推奨したい」と書いていました。
もっとも、これは皮肉です。絶対に副読本に採用されることはないからです。
 
北野武氏の考え方と文部科学省、自民党の考え方はまったく違います。
一般の人も文部科学省、自民党の考え方に近いでしょうか。
 
そうした一般の人の代表的な意見が朝日新聞の読者投稿欄に出ていました。
 
 
(声)しつけとは我慢を教えること
 中学校教員 (男性)(長崎県 48)
 
 登校中の小学生で、時には茶髪や奇抜な頭髪を見かける。中学校に進学してきたら指導が大変だろうと思う。一般的にそんな子の親は「人に迷惑はかけてないからいいじゃないか」と言う。そのような論理に立てば、ピアスもネックレスも許される。指導もいらない。校則がないほうが教員にとっては楽に違いない。でも、本当にそれでいいのか。
 
 「褒めて伸ばす」とか「個性の尊重」は悪いことではない。しかし、それは基本的なしつけがあった上での話だ。私は、しつけというのは子どもに我慢を教えることだと思っている。そして、基本的なしつけは親の仕事のはずだ。
 
 保護者と教員の意見が一致していれば問題はないだろうが、両者の思いがすれ違うことが増えているように感じる。学校は集団で生活するところだ。子どもたちは教科の学習をするだけでなく、社会のルールを学び、社会性を身につけていく。そのためにわがままはほとんど許されない。
 
 親にとって子どもはかけがえのない存在だ。だからこそ将来の我が子の姿を思い浮かべながら、学校での指導が何のために行われているのか冷静に判断してほしい。
 
 
「子どもに我慢を教えることのたいせつさ」を主張する意見はよくあり、これはその典型です。そして、あまり反論されることもないので、この手の意見はまかり通っています。そこで、この機会にちょっと反論してみようと思います。
 
この投稿者は「子どもに我慢を教える」と書いていますが、具体的にどうやるのかは書いていません。
子どもに向かって「我慢をしなさい」とか「我慢をすることはたいせつだ」と言ったりするのでしょうか。それで子どもに我慢を教えたことになるのなら、道徳教育とは簡単なものです。「努力しなさい」とか「イジメはよくない」とか言っていればいいわけですから。
 
おそらく投稿者は、子どもに実際になにかを我慢させて、それをもって「子どもに我慢を教える」ことだとしているのでしょう。投稿者は中学教員ですから、子どもがやりたいことを禁止するとか、やりたくないことをやらせるとかはむずかしいことではありません。
 
しかし、そうして我慢させると、子どもはどうなってしまうでしょうか。
 
ひとつの可能性として、我慢させられることが嫌いで、反抗的な子どもになってしまうことが考えられます。
もうひとつの可能性として、我慢させられることが当たり前になり、意欲のない子どもになってしまうことも考えられます。
どちらにしても、ろくなことではありません。
 
この投書の主張の根本的な問題は、「我慢する」ことと「我慢させられる」ことの区別がついていないことです。
 
人生で「我慢する」ことはたいせつですが、「我慢させられる」ことはできる限り少なくしたいものです。
いや、主体的に生きている人間は、「我慢させられる」ことはないはずです。会社で「我慢させらせる」ことがあっても、自分がその会社にいることを選択しているのですから、実際は「我慢している」わけです。
 
一方的に「我慢させられる」人間というのは、奴隷です。
「我慢させる」教育というのは、奴隷の教育です。
 
富国強兵時代の教育は、産業の発展に役立ち、戦争においては命令に従う人間をつくることが目的でしたから、奴隷の教育でした。
今もその流れを引き継いで、この投書みたいな主張があるわけです。
 
道徳教育というものは、子どもの主体性を無視した人間が行うものです。
「子どものわがままは許さない」というおとなは、自分がわがままなのです。
 
もっとも、こういうことは「新しい道徳」の中にちゃんと書いてあります。
「道徳がどうのこうのという人間は、信用しちゃいけない」と。