賢い人は学び、愚かな人は学ばせる――というのは、今私が思いついた格言(風の言葉)です。
水木しげるさんは賢い人ですから、ニューギニアの未開人から学びますが、愚かな人は未開人を文明化しようと学ばせるわけです。
 
子どもに対するときも同じです。子どもから学ぶ人と、なにも学ばず、学ばせることしか考えない人がいます。
 
たとえば次のニュースから、いろんなことが学べるはずです。
 
 
マラソン中の女性に男性客がセクハラ野次→ひとりの男の子が見せた勇気ある行動に絶賛の嵐
 
マラソン大会に出場していた女性選手に野次を飛ばしていた男性に、勇気をもって注意した男の子に称賛の声が高まっている。
 
サンタモニカ在住のジュリア・プライスさんがマラソン大会に出場した時のこと。走行中、観客から「ヘイ、セクシー姉ちゃん!」などとセクハラ野次を飛ばされたのだという。ヘッドフォン越しにも聞こえるくらい大きな声だったが、もちろん無視していたジュリアさん。しかしこの男性がさらに下品な野次を飛ばしてきたのだそうだ。
 
すると、まだ幼い男の子が、母親、妹と一緒にこの男性のそばにやってくると、こう注意したのだという。
 
「おじさん、そういうことは言わない方がいいと思います。よくないことです。彼女は悪い人じゃないし、知らない誰かにヒドイことを言うのはやめてほしいです。あのお姉さんは僕の妹と同じ女の子です。だから僕はお姉さんを守ります」。
 
この男性は恥ずかしさのあまり、その場を去っていったそう。この一部始終をジュリアさんも見ており、後にFacebookでこの男の子の勇気ある行動に感謝の言葉を述べている。
 
 

Iwas on my usual running path when I heard an older man yelling loudly enoughfor me to hear through my headphones. "...

Postedby Julia Price on Wednesday, November 18, 2015

 
周囲の観客たちも感動と絶賛だったそうだ。
 
 
この幼い男の子が何歳かよくわかりませんが、いわゆる「道徳教育」は受けていないのではないでしょうか。
むしろ「道徳教育」を受けていないからこそこうしたことができたのかもしれません。
 
おとながこの男の子から学ぶべきことは、ヤジを飛ばした男性を非難するのは抑制的で、ヤジられた女性を守ろうという気持ちが前面に出ているところです。
これはなかなかできないことです。たいていの人は、男性を非難するほうに力が入るからです。
 
凶悪な殺人事件が起こったとき、犯人を死刑にしろという声が上がります。その理由として被害者や被害者遺族への同情ということが挙げられます。しかし、ほんとうに同情心があるのかあやしいことが少なくありません。被害者遺族に対する同情心があるなら、死刑にされる犯人やそのゆかりの人に対する同情心はないのかという疑問もあります。
 
つまり、加害者への怒りと被害者への同情心は、本来釣り合っているはずのものですが、今は怒りが強く、同情心が少なくなっていると思えるのです。
 
電車の中で若者が年寄りに席を譲るべきであるのは、年寄りが立っているのはつらいことだからです。当然、年寄りに対する思いやりや同情心があるのが前提です。
 
ちなみに電車の中で年寄りが立っていて若者が席を譲らないという状況に出くわした場合、年寄りへの同情心があるのなら、若者に対して「このお年寄りを座らせてあげてくれませんか」と低姿勢で頼むはずです。そうしたほうが若者も譲ってくれるはずです。
ところが、今の時代、席を譲らない若者を非難する声ばかりが目立ち、年寄りに対する同情心はほとんどうかがえません。
 
そうした中、この男の子の言葉は女性への同情心を前面に出しているので、周りの人の感動を呼んだのではないでしょうか。
 
賢いおとなはこの男の子の言動から人間の生き方を学びますが、愚かなおとなは子どもに道徳教育をしなければならないと考えるわけです。
 
ということを結論にしようと思ったのですが、書いている途中で、これはほんとうの話なのかという疑問がわいてきました。
女性はマラソンで道路を走っていたわけです。男性のヤジは聞こえても、男の子が男性のそばに寄って話しかける声は聞こえるでしょうか。しかも、女性はヘッドフォンをしていたのです。
「周囲の観客たちも感動と絶賛だった」というのも、見ていてわかることでしょうか。
 
この話は女性のFacebookだけが根拠となっているようです。ヤジられたのはたぶん事実で、そのあとのことは、こんなことがあればいいなという女性の想像であるような気がします(走りながら腹立たしい気持ちを収めるためにいろいろ想像したというのはありそうなことです)
 
一般論として、おとなは子どもよりも信用できません。
そういう意味でもおとなは子どもから学びたいものです。