卒業式と入学式の季節になると国旗国歌について議論が起きますが、この問題については馳浩文科相がおもしろいことを言っています。
 
岐阜大学が卒業式などで国歌斉唱をしない方針を表明したことについて、馳文科相は「国立大として運営費交付金が投入されている中であえてそういう表現をすることは、私の感覚からするとちょっと恥ずかしい」と言いました。
つまり国歌斉唱をするべき理由を「恥ずかしい」という個人的な感覚で説明したのです。
 
馳文科相はこの2日後、また同じ問題について、「国費も投入されている。日本社会のすべての方々に感謝の気持ちを表現する場合に、儀礼的な側面を重要視する必要がある」と言いました。どうやら「恥ずかしい」と言ったことを反省して、言い直したものと思われます。
 
しかし、「感謝の気持ち」や「儀礼的な側面」を持ち出しても、国歌斉唱をしなければならない理由にはなりません。
 
だいたい税金を投入しているから感謝の気持ちを表現しろというのは、とんでもない理屈です。
税金を投入するのは投入するべき理由があるからですし、それを受けるのは納税者として当然の権利です。そこに「感謝」など入ってくるわけがありません。
 
また、「儀礼的な側面」というのが問題です。
人が人に対しておじぎをするのは礼儀ですが、モノやシンボルに対しておじぎをするのは果たして礼儀でしょうか。
 
日本で国旗国歌への崇拝が強制的に行われるようになったのは、第一次近衛内閣が1937年から始めた「国民精神総動員」運動においてです。このときは「国旗掲揚、国歌斉唱、宮城遥拝」が3点セットになっていました。
宮城におられる天皇陛下は現人神ですから、これは明らかに宗教行為です(国家神道)。イスラム教徒がメッカの方向に礼拝するのと同じです。
 
今、学校で強制されているのは国旗掲揚と国歌斉唱だけです。宮城遥拝はさすがに宗教色が強すぎるので省かれているのでしょう。しかし、基本精神は昔と同じです。
馳文科相がうまく説明できないのも当然です。
 
外国人のいるとき、外国旗に礼をして外国に敬意を表するというのは意味のある行為ですし、国際試合などで国旗国歌を使って雰囲気を盛り上げるというのも意味がありますが、日本人しかいないところで国旗におじぎをして、直立不動で国歌を歌うことにはなんの意味もありません。
こういうむなしい行為を強いられるのは、普通の人間にとっては苦痛です。
 
宗教系の学校で、生徒に校門や校舎に対してお辞儀をさせているところがありますが、公立学校で同じことをさせたら問題になるでしょう。国旗国歌への崇拝も同じことです。
 
学校における国旗国歌の崇拝は宗教行為だと見なすとよく理解できると思います。
 当然これは憲法違反です。
少なくとも合理的行為でないことは明らかです。公立学校はもっぱら税金で運営されているのですから、不合理で無意味な行為は許されません。