この3月末で「らい予防法」廃止から20年になるそうですが、ハンセン病への差別というのは実にひどいものでした。今でもなくなったとはいえません。
 
しかし、ハンセン病差別が昔からあったかというと、そうではありません。
司馬遼太郎の小説を読んで知ったのですが、関ケ原の戦いで西軍の側で戦い、名将とされた大谷吉継はハンセン病を患っていて、関ケ原の戦いの際は頭巾をかぶって顔を隠し、部下の担ぐ御輿に乗って指揮をとったそうです。
ということは、部下たちは普通に大谷吉継と接していたのです。
 
ハンセン病はきわめて感染力が低く、進行も遅いので、当時は遺伝病と信じられていたそうです。隔離という発想がないのは当然です。
 
ハンセン病患者を隔離するという考え方は欧米から入ってきたものです。
厚生労働省の「わたしたちにできること~ハンセン病を知り、差別や偏見をなくそう~」というサイトにはこう書かれています。
 
 
明治になり、諸外国から文明国として患者を放置しているとの非難をあびると、政府は1907年(明治40年)、「癩予防に関する件」という法律を制定し、「放浪癩」を療養所に入所させ、一般社会から隔離してしまいました。この法律は患者救済も図ろうとするものでしたが、これによりハンセン病は伝染力が強いという間違った考えが広まり、偏見を大きくしたといわれています。
 
 
この文章は、まるで官僚に責任がないかのような書き方になっています。
 
『「らい病」と私たち』というキリスト教系のサイトにはこう書かれています。
 
 
一九〇七年 「癩(らい)予防ニ関スル件」制定
 
  患者が、全く治療されずに放浪したり、物乞いをしたりしているのを、欧米人から非難された明治政府は、近代国家としての体面を取繕うため、患者を収容して隔離することにしました。そのために制定された法律がこれです。
  実は、これより十年も前に開かれた「第一回らい学会」で、患者の隔離は特別の場合以外は必要ないとされていました。しかし、その意見は取り入れられずに法律は制定され、それに基づいて、放浪している患者の収容は強制的に行なわれました。およそ人間として扱っているとは思えないような方法がとられました。
 
 一九〇九年 公立療養所の設立
 
  患者の隔離施設がこの療養所です。青森、東京、大阪、香川、熊本の五ヶ所に作られました。医学的には、伝染力は弱いことは知られていたにもかかわらず、「らい病」は伝染する恐ろしい病気だと宣伝され、患者の収容が行われました。患者がいた家や触った物などは、徹底的に消毒されました。療養所内の患者の生活は、何の自由も認められず、殆ど囚人と同じ扱いでした。逃亡を防ぐため、療養所内でしか通用しない通貨を持たされたり、縞模様の服が支給されたりしました。
  このように、従来の遺伝病という迷信に加え、強い伝染病という誤った情報によって、ハンセン病に対する偏見と差別意識は日本社会に定着していきました。
 
 
日本に差別思想を植えつけたのは今の厚生労働省(昔は内務省衛生局)の官僚なのです。
彼らは欧米の学問や文化を学ぶときに、いっしょに差別思想も学んでしまったのです。
 
欧米でハンセン病差別が強かったのは、新約聖書で「レプラ」という言葉がライ病と解釈されたこともひとつの原因のようです(実際はレプラという言葉は皮膚病の総称だったと『「らい病」と私たち』には書かれています)

日本は欧米の優れた文化を学ぶことで進歩してきましたが、なんでも学べばいいというものではありません。

ちなみに欧米ではイスラム教差別も強烈です。そのため世界では戦争やテロが絶えません。