2歳の長男をプラスチック製の衣装ケースに閉じ込めて殺害したとして、4月11日、父親の井上祐介容疑者が逮捕されました。
ケースは幅約80センチ、奥行き約40センチ、深さ約30センチで、そこに長男と3歳の長女を入れて蓋をし、約30分放置したということです。
井上容疑者は「しつけのためにやったが殺すつもりはなかった」と容疑を否認し、また閉じ込めについては「十数回やった」と供述しているということです。
 
幼児虐待をする人間の決まり文句が「しつけのためにやった」です。
 
で、これに対する反論を私は聞いたことがありません。
ワイドショーのコメンテーターなどは日ごろ、「親は子どもにちゃんとしつけをするべきだ」と主張しています。そういう主張と整合性が取れなくなるからでしょうか。
 
考えられる反論としては、「しつけするのはいいが、殺したりケガさせたりするのはやりすぎだ」というものでしょう。
しかし、こう主張すると、「じゃあケガさせない程度にやればいいのか」ということになって、虐待を正当化しているみたいです。
 
あるべき反論は、しつけと虐待の線引きをした上で、「それはしつけではなくて虐待だ」というものでしょう。
しかし、しつけと虐待、あるいはよいしつけと悪いしつけの線引きというのは誰にもできません。
というのは、もともと「よいしつけ」というのは存在しないからです。
 
しつけや教育をするのは人間だけです。
犬や猫やその他の動物の子育てを見ていると、親は子どもの安全と飢えさせないことだけに気をつかい、子どもは親の周りで自由に遊んでいます。親は子どもに指図したりしません。
それでいて子どもがわがままになるということはありません。
 
とすれば、人間の場合も、親がしつけをしなくても子どもがわがままになるということはないはずです。
人間がしつけをするのは、基本的に親のためです。家を汚されると困る、うるさいのは迷惑だ、親の言うことはなんでも聞いてほしい、などの理由でしつけをするわけです。
 
ただ、文明社会にはたとえば自動車があって、子どもを自由に遊ばせておくことができません。しかし、これはもともとおとなの都合で子どもの生活圏にまで自動車を入れてしまったことで生じた問題です。ですから、子どもの行動を制限するのは、やむをえずすることで、おとなとしてはむしろ後ろめたい行為です。「子どもが悪いことをするから罰する」というようなことではありません。
 
「自動車の通るところでは遊ばない」というのはもちろん子ども自身のためです。ということは、成長すればおのずとわかることです。むりやりわからせることではありません。
 
虐待を「しつけのためにやった」と主張する人は、しつけは子どものためだと思っているのです。そのため、やればやるほどいいと思って、歯止めがなくなります。
 
しつけはおとなのためだと思っていれば、必要最小限にとどめようとしますし、しつけのために暴力をふるうこともありません。
 
ですから、「しつけのためにやった」と主張する人に反論するとすれば、「しつけは子どものためではなく自分のための行為ですよ」ということになります。
みんながこのことを理解していれば、虐待もなくなるはずです。