バングラデシュ・ダッカのテロ事件で日本人7人も亡くなり、安倍首相は「この卑劣なテロに対して強い憤りを覚える」「世界の国々と共有している価値に対する挑戦であり、断固非難する」などと語りました。
テロに対して無為無策であると言っているのと同じです。
もっとも、それは安倍首相だけでなく、世界各国の首脳も同じことです。
 
世界はテロに対して無策です。
テロだけではなく犯罪に対しても同じです。
要するに人類は悪に対して無策なのです。
 
この機会に改めて、悪について哲学者、思想家はどう考えてきたのか調べてみました。
 
ウィキペディアで「倫理学」の項目を引いてみると、ソクラテスは問答法を通して徳の探求をし、プラトンは善のイデアを探求し、アリストテレスは最高善を究極目標にして善を探求したということです。
古代ギリシャ哲学ではもっぱら徳や善を探求して、悪についてはあまり考察していないようです。
 
ちょっと古い倫理学事典や思想事典で「悪」の項目を引くと、たいてい「悪とは善の欠如である」と定義されています。これは中世の神学者トマス・アクィナスによる「神学大全」に書かれていることです。この定義は広く西洋社会に受け入れられました。
 
悪が善の欠如であるなら、善の実現をはかれば悪は消滅する理屈です。
そういうことで西洋哲学は善や徳ばかりを探求し、悪を軽視してきたのでしょうか。
 
もっともその一方で、マルキ・ド・サドの、悪を肯定する「悪の哲学」という極端なものが生まれたりもしました。
 
非西洋では、儒教における性善説と性悪説、親鸞の悪人正機説などがあり、むしろ悪を正面から受け止めてきたかもしれません。
 
西洋哲学が悪を軽視してきたのは、宗教の影響もありそうです。
ユダヤ・キリスト教では最後の審判、ハルマゲドンなどによって悪が裁かれます。ですから、悪の問題は神に任せておけばいいということになります。
 
裁判官は黒い法服を着ますが、あれは明らかに宗教家を連想させるものです。また、裁判の象徴として剣と天秤を持つ正義の女神が使われますが、これはギリシャ神話に由来します。
つまり悪を裁くことは、いまだに宗教や神話の権威を利用して行われているのです。
 
 
進化論の登場は悪について考え直すチャンスでした。
人間はなぜ戦争をするのかとか、なぜ限りなくなわばりを広げて帝国を築くのかとか、考えるべきことはいっぱいあります。
ところが、ダーウィンは悪についてではなくもっぱら善や徳について考えました。道徳性を持っているのは人間だけではない、動物も子どもの世話をしたり仲間を助けたりする道徳性がある、それが進化して、そこから道徳が生まれた、という具合です。
これが進化倫理学と呼ばれるものになりました。
 
ダーウィンがもっぱら善や徳について考えたのは、古代ギリシャ哲学からの伝統だったかもしれません。
 
その結果、進化倫理学は悪についてなんの説明もできません。
そこをねらったように社会ダーウィン主義や優生学が猛威をふるったりしました。
 
 
ともかく、西洋哲学では悪を人間の営みとしてとらえ、思想的に解決しようという視点がほとんどありません。
そのため、イスラム過激派のテロリストに対して、アメリカなども実は宗教で対峙していて、宗教戦争状態になっています。
悪を軽視してきた西洋哲学の弱点が表れた格好です。