橘玲著「言ってはいけない残酷すぎる真実」(新潮新書)が売れているようです。
 
進化生物学、脳科学、認知科学などによる人間の科学的・実証的な研究がどんどん進んで、今や人間観を根底から変えなければならない時代です。しかし、この手の本はどうしても専門的になり、むずかしいし、おもしろくありません。
その点、橘玲氏は作家だけにおもしろく読ませる力がありますし、犯罪、暴力、お金、セックスなど読者が食いつきたくなる題材を扱い、専門家でないために総合的な視野もあります。
 
そういうことでおもしろく読め、いろいろなことも学べます。
 
たとえば、われわれは面長の男性と顔の幅の広い男性とを見比べると、顔の幅の広い男性のほうを攻撃的と判断して、この判断はかなり正確なのだそうです。というのは、男性ホルモンであるテストステロンが濃いと顔の形が幅広になるからだというのです。
私は昔から、政治家というのはなぜかブルドッグみたいな顔の人が多いなと思っていましたが、これを読んでその理由がわかりました。攻撃的な人が政治の世界で出世するのです。
トランプ氏も幅の広い顔で、いかにも攻撃的です。
一方、オバマ大統領や谷垣禎一自民党幹事長は面長で、政治家としては異色です(谷垣幹事長は自転車で転倒して入院中ですが、自転車が趣味というのも政治家としては異色です)
 
こんな興味深い話がいろいろ書かれているのですが、読んでいるうちにこれは“残念な本”だということもわかってきます。
 
たとえば、アメリカにおいて白人の知能の平均を100とすると黒人は85になるのだそうです。この数字が正しいか否かは別にして、人種と知能に関係があっても不思議ではありません。
 
本書では、容姿の美しさについてもいろいろ書かれ、「美人とブスでは経済格差は3600万円」だそうです。
私の経験では、美人とブスの問題にも人種は関係あります。ラテン系は美人が多いですが、アングロサクソン系にはあまりいません。東南アジアの女性は鼻が横に広く、あまり美人はいません。日本と韓国では韓国に美人が多い気がします(ネトウヨによると整形のせいだそうですが)。また、国内でも地域差があって、私はこれまで京都、名古屋、東京に住んできましたが、京都と東京には美人が多く、名古屋にはあまりいません。
 
ところが、本書には美人と人種の関係についてはなにも書かれていません。知能に関するところにだけ人種が持ち出されるのです。
しかも、知能と人種の関係を論じることはタブーにふれることだと強調されます。そのため「個人差」ということが無視されてしまいます。

黒人はみな肌が黒く、白人はみな肌が白いので、「黒人の知能は白人より劣る」と言われると、黒人はみな白人より知能が劣ると思う人がいるかもしれません。しかし、これは間違っていて、これが差別主義です。
 
自然界の現象の多くは釣鐘型(ベルカーブ)の正規分布になることが知られていて、知能も同様です。白人の平均知能が100、黒人が85だとすると、それぞれ釣鐘型に分布するのですから、かなりの部分が重なり合うでしょう。ですから、ある白人とある黒人の知能を比べると、黒人の知能が高いケースはいくらでもあることになります。これは差別主義者にとっては「残酷すぎる真実」でしょう。
 
名古屋には京都や東京より美人が少ないといっても、名古屋出身の美人女優やモデルがいっぱいいることを見てもわかるように、ごくわずかの差です。ですから、私も本来ならこんなことは言いません。問題はあくまで「個人差」です。
 
 
橘玲氏は性差についても同じような議論を展開します。
幼い子どもに絵を描かせると、女の子は暖色を多く使って人物やペットや花や木を描き、男の子は寒色を多く使ってロケットやエイリアンや車など動くものを描こうとする。これは親や教師が「男の子らしい」あるいは「女の子らしい」絵を描くように指導したからではなく、生まれつきの性差によるのだ。文化や教育が性差をつくってきたというフェミニストの主張は間違いだ。
 
確かにフェミニストは生物学的性差を軽視ないしは無視してきて、これは間違いです。
しかし、橘玲氏の主張も「性差」を強調するあまり「個人差」を無視しています。
生物学的性差の男らしさ、女らしさにも「個人差」があり、釣鐘型に分布するので、女の子らしい男の子、男の子らしい女の子も存在することになります。
橘玲氏の主張はLGBTの人への差別につながります。
 
 
ダーウィンの進化論以来、社会ダーウィン主義、優生学、エドワード・O・ウィルソンの社会生物学と、科学と差別主義を結びつけることが行われてきて、本書もその末席に連なることになりました。
読んでためになることもいっぱい書かれているので、なんとも“残念な本”と言わざるをえません。