リオ・オリンピックが始まりました。
開会式を生放送で見ましたが、森林破壊、地球温暖化、海面上昇など環境問題を前面に出し、サンバやカーニバルなどブラジル風の祭りの要素も入れて、なかなかいいものでした。
聖火ランナーが登場したときは、風が強くてトーチの火が吹き消されそうでした。もし消えたら、ライターでつけるわけにもいかず、予備の火を持ってくるのを待たないといけません。大丈夫かなと心配しましたが、火は消えることなく、すばらしいモービルつきの聖火台に着火しました。
開会式はとくにトラブルはなかったそうです。
 
考えてみれば、風でトーチの火が消えるなんていうドジなことが起こるわけありません。
このところリオについての報道は、治安が悪いということと、選手村でお湯が出ないとか、トイレが流れないとか、クーラーが動かないとか、そんなことばかりでした。偏見に満ちた報道に影響されていたのかもしれません。
 
上海ディズニーランド開業のときの報道が客のマナーが悪いということばかりだったのを思い出しました。日本のマスコミは一斉に同じ方向に走るという習性を持っているので、うっかりするとそれが偏見と気づかないことがあります。
 
 
偏見といえば、オリンピック自体がヨーロッパ的偏見に満ちたものです。
 
今の若い人は知らないかもしれませんが、昔のオリンピックはアマチュアリズムということにひじょうにこだわっていました。プロ選手はもちろん排除され、アマチュア選手が企業からわずかでもお金や便宜を提供されるときびしく処罰されました。共産圏の選手はステートアマと呼ばれ、アマチュアリズムに反するものと批判的に見られていました。
 
しかし、1974年にオリンピック憲章からアマチュア規定が削除され、プロも参加できるようになりました。そうなったからといってなにも問題はなく、それまでこだわっていたアマチュアリズムはなんだったのかということになりました。
今ではアマチュアリズムという言葉は死語です。
アマチュアリズムとは、お金や商業主義に対する偏見の別名だったのでしょうか。
 
オリンピックの標語は「より速く、より高く、より強く」です。
昔はオリンピックというと必ずこの標語が紹介されました。
しかし、最近この標語を目や耳にすることはほとんどなくなっています。
考えてみれば、これも「人類は進歩するべきだ」という進歩主義思想の現れでした。
 
五輪のマークは、5つの大陸を表し、全世界の人がスポーツのもとで手をつなごうという意味だそうです。
しかし、5大陸が平等ということではなさそうです。
というのは、入場行進の先頭はギリシャと決まっていて、聖火の採火式が行われるのもギリシャのオリンピア遺跡です。
これはもちろん近代オリンピックが古代オリンピアの祭典をもとに考案され、第1回大会がアテネで開かれたことからきています。
しかし、参加国はみな平等であるべきです。ギリシャだけ入場行進の先頭という特権的な地位を得ているのは不当です。
 
ヨーロッパの人たちは古代ギリシャの文化に特別な価値を見出しています。そして、自分たちはその流れをくんだ特別な存在だと思っています。
つまりヨーロッパ文化は世界の文化に優越していると思っているのです。
 
今、ヨーロッパ人が人種的に優越しているなどと言うと、人種差別だとして批判されます。
ヨーロッパ文化がほかの文化よりも優越していると露骨に言うと、やはり批判されるでしょうが、さまざまな形で巧妙に表現されています。オリンピックにおけるギリシャの特権的な立場はそのひとつです。
 
ヨーロッパ(とアメリカ)の文化はほかの文化に優越しているという考え方は、植民地主義、帝国主義を生み、今もイスラム諸国や中国などとの対立を招いています。
 
リオ・オリンピックの開会式はとてもカラフルで、いかにも熱帯の国という感じがしました。
今やオリンピックは世界のものです。ヨーロッパ中心思想はさっさとゴミ箱に捨ててしまいたいものです。