高畑裕太容疑者(22)が逮捕されたことで母親の高畑淳子さんが謝罪の記者会見を行い、それがきっかけで「親の責任」ということが改めて議論されています。
「子どもが20歳すぎれば親に責任はない」というのが今の主流の考え方です。とくに有識者とか知識人はみなその考えです。
しかし、こんなおかしな理屈はありません。
19歳と20歳とどこが違うのでしょうか。
 
法律はどこかで線引きをしなければなりませんから、未成年者が責任無能力者であった場合は、親などの監督義務者が損害賠償責任を負うことになりますが、道義的責任にそんな線引きがあるはずありません。
 
たとえば20歳すぎの若者がオリンピックで金メダルを取ったとき、親にも脚光が当たり、親が出てきて、その教育法を語ったりします。「子どもはもう20歳すぎですから、親は関係ありません」と言う親はまずいません。
ところが、若者が不祥事を起こすと、「もう20歳すぎですから、親は関係ありません」ということがまかり通っているのです。
いいときだけ出てきて、悪いときは無関係を装うというのは、あまりにもご都合主義です。
 
これは親だけのことではありません。
人間は一人では生きられない、互いに支え合っているのだとはよく言われることです。
これに20歳未満、20歳以上ということは関係ありません。
ところが、誰か一人が犯罪などの不祥事を起こすと、周りの人間は「本人の責任だ。私は関係ない」と言うのです。
これは当然、「十分に支えてやれなかった私にも責任がある」と言うべきです。少なくとも親しかった人間はそうです。
 
芸能界で高畑裕太容疑者と共演していた人たちも、「支えてやれなかった」「助言してやればよかった」などと反省の言葉があってしかるべきですが、逆に批判する声ばかりが聞こえてきます。
 
 
欧米では「子どもが20歳すぎれば親に責任はない」という考え方が一般的だと言われます。
ほんとうにそうなのかあやしい気がしますが、一応そうだという前提で話を進めます。
 
欧米で「子どもが20歳すぎれば親に責任はない」という考えが一般化したのは、欧米では子どものしつけ方が確立していて、どの家庭でも同じようにしつけているからではないかと思われます。
 
日本では江戸時代までは、武士階級は別として、子どもをきびしくしつけるという習慣がありませんでした。そこに明治政府により欧米流のしつけや教育が持ち込まれましたが、日本流と欧米流が混在し、いまだに各家庭でしつけのやり方がバラバラです。そのため「よいしつけ」と「悪いしつけ」という認識があり、親のしつけや教育のあり方が問われます。
しつけや教育が悪かったら、子どもは悪いおとなになります。これは当然親の責任です。どもが20歳すぎれば関係ないとは言えません。
 
それから、欧米の人は自分たちの文化に自信を持っています。
自信だけならいいのですが、それが傲慢になり、自分勝手になります。
ですから、植民地主義についても、優れた文化を教えてやったと思っていて、謝罪しません。
それと同じで、子どもを教育することは優れた文化を教えてやることだと思っているので、その結果子どもが悪くなったら、それは子ども自身の責任だという理屈で、親である自分を正当化して謝罪しません(欧米でもまともな親なら、子どもが悪くなったのは自分の責任だと認めるはずです)。
 
つまり「子どもが20歳すぎれば親に責任はない」というのは、身勝手な親がつくりだした理屈なのです。
 
日本の社会が絆をたいせつにし、互いに支え合う社会なら、子どもが20歳すぎれば親に責任はない」などという理屈が認められるはずありません。