トランペット奏者の日野皓正氏が中学生の演奏会でドラムのソロパートをたたき続ける中学生に往復ビンタをした動画が公開され、またしても体罰論議が起きています。
 
事件のいきさつと議論をまとめたのが次の記事で、問題の動画も見られます。
 
日野皓正さん往復ビンタ「体罰容認」の空気を作ってしまう日本
 
日野皓正氏が大物であることに便乗して、沈黙していた体罰肯定論者が声を上げたということでしょう。
 
スティックを取り上げられても手でドラムをたたき続ける中学生が悪いから、日野氏の体罰は正しいという意見もありますが、中学生の行為は関係ありません。強い者が弱い者に一方的に暴力をふるうということは、どんな理由があってもだめに決まっています。
 
ただ、日野氏の側にもそれなりの理由はあったでしょう。
問題の中学生がドラムをソロで長時間たたき続けたために、ほかの中学生の演奏する時間がなくなるとか、聴衆がうんざりしているという事情があったと思われます。
ですから、ビンタをむりやり正当化するとすれば、「ほかの子や聴衆のためにやむをえなかった」ということになりますが、実際はビンタしなくてもやめさせられますから、やはりこの理屈は成り立ちません。
 
そこで、体罰肯定論者は「その子のためだ」と主張して、教育や道徳を持ち出して理由づけをします。
「ドラムをたたき続けた中学生が悪い」とか「言ってわからなければ体罰はしかたがない」とか「きびしくしないとわがままになる」とかです。
 
しかし、実際はわがままなおとながキレて、自分を正当化する理屈を言っているだけです。
もちろん体罰はその子のためになりません。体罰されると体だけでなく心がダメージを受け、繰り返されると人格がゆがみます。
そのゆがみが体罰肯定、暴力肯定の考えとして表れます。つまり暴力の連鎖です。
今回、日野氏に便乗して体罰肯定論を言っているのはそういう人なのでしょう。
 
それに、このケースでは、問題の中学生はソロでドラムをたたいているうちに乗ってきて、止まらなくなったものと思われます。それを暴力で止めると、次にまた演奏するうちに乗ってくると、そのときの記憶がフラッシュバックして、乗れなくなってしまうおそれがあります。つまりこのビンタは、この子の可能性をつぶしてしまったかもしれないのです。
 
そもそもジャズではこの中学生の暴走は少しもおかしいことではないという意見があります。「リテラ」の「日野皓正ビンタ事件で、中学生が非難され日野の体罰が支持される異常!教育的にもジャズ的にも日野がおかしい」という記事から一部を引用します。
 
 
 たとえば、元ジャズミュージシャンのギター講師・八幡謙介氏は自身のブログのなかで、〈「おのおの決まった小節ずつ平等にソロを回す」という決まりを本番で無視し、自分だけのドラムソロとして食ってしまうことは、<ジャズ的>には全然ありです〉と、少年の行動をジャズプレイヤーの見地から認めている。ただ、〈その後に<回復>できなかったのは彼の責任〉ではあるとしつつも、中学生では仕方がないことだと述べ、こうつづけている。
〈それにしても、この少年の勇気には脱帽です。
 考えてみてください、日本人の中学生が世界的アーティストの監督する舞台の本番で、自らルールを破りジャズの精神に則って<逸脱>したのです!(しかもスティック取り上げられても、髪を掴まれても反抗してる!!)
 この一点だけ見ても僕には彼がそこらへんのプロよりも立派な「ジャズミュージシャン」であると思えます〉
 
 
一方、日野氏のほうはあまりジャズミュージシャンらしくありません。
事件が起きたジャズコンサートは世田谷区教委主催で、地元の中学生による「ドリームジャズバンド」を日野氏が指導していたということですが、果たしてジャズというのは教えることができるものなのでしょうか。
クラシック音楽の世界は、小さい子どもに徹底した教育を行いますが、ジャズの世界はその対極にあるものです。
子どもに教えて演奏がうまくなっても、それはジャズといえるか疑問です。
 
今回の体罰論議は、「世界的なトランペット奏者」という肩書に惑わされ、体罰とは強者が弱者に一方的にふるう暴力であるという本質が見えなくなった人たちが引き起こしたものです。