今回の憲法記念日で憲法施行から71年たちましたが、改憲論議はますます混迷を深めています。
なぜ混迷するかを考えたとき、改憲論議に「世界観」がないからだと気づきました。
憲法論議には「国家観」がだいじだと一般には考えられていますが、「国家観」の上位にあるのが「世界観」です。「世界観」なしに憲法九条の論議はできません。
 
今の世界は、唯一のスーパーパワーであるアメリカが主導しています。
トランプ政権は昨年12月に発表した国家安全保障戦略で「力による平和」をうたいました。
「力による平和」はレーガン政権のときにもうたわれていました。というか、アメリカの一貫した戦略といえます。
 
もっとも、戦後の一時期は違いました。「国連軍による平和」という理念があったのです。
 
「日本はなぜ、『戦争ができる国』になったのか」(矢部宏治著)によると、国連の安全保障理事会のもとに国連軍を創設し、「平和に対する脅威」や「侵略行為」があった場合は、勧告や非軍事的措置の対処をしたあと、それでもまだ状況が改善されなければ国連軍による軍事攻撃を行うという構想がありました。1946年2月にはロンドンで国連軍創設のための第一回会議が行われています。マッカーサーはそれを踏まえて日本国憲法の基本原則を考えました。ジョン・ダワーは、「マッカーサーの構想では、日本の『非武装中立』は、沖縄を含む太平洋の主要な島々に、国連軍を配置することによってまもられることになっていた」と述べています。
憲法九条の戦争放棄、戦力不保持は、国連軍を前提としていたとすればよく理解できます。
 
二度の悲惨な世界大戦を経験した世界は、一時は「国連軍による平和」を目指すと結論を出したわけです。
しかし、アメリカは戦争の悲惨さをあまり経験していないので、国際連盟にも加盟しませんでしたし、国際連合もないがしろにして、「国連軍による平和」構想を反故にしてしまいました。
結局、国連軍は創設されず、「朝鮮国連軍」というへんなものができただけです。

そして、日本はひたすらアメリカに頼って安全保障をすることになりました。
しかし、アメリカの「力による平和」は、アメリカが覇権国だから可能なのです。アメリカの覇権が揺らげば、平和も危機に瀕します。また、覇権国がアメリカから中国に移れば、日本は中国に頼るのかという問題に直面します。
 
覇権国が世界を支配するか、民主的に運営される国連が世界を支配するかという二者択一であれば、答えは決まっています。
しかし、国際政治学者はこのような問題提起はしません。みんなアメリカの影響下にあるからです。彼らはもっぱら「国連は頼りにならない」というイメージを振りまいて、日本をアメリカ依存に向かわせようとしています。
 
自民党の改憲論議にも、こうした世界秩序に関する認識がありません。2012年の自民党改憲草案の「前文」で世界観に関する記述は、「わが国は、先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し、今や国際社会において重要な地位を占めており、平和主義の下、諸外国との友好関係を増進し、世界の平和と繁栄に貢献する」とあるだけです。これでは世界がどういう原理で動いているのかわかりません(改憲派はアメリカに追随していくだけですから、世界観はどうでもいいのでしょう)。
 
護憲派も、憲法九条が国連軍を前提としていたことを忘れて、アメリカに頼ることを前提にしているようです。アメリカに頼ると、外国から攻められる危険はありませんが、アメリカが日本を戦争に巻き込む危険はあるので、もっぱらアメリカの戦争に巻き込まれないことを目標にしてきました。
しかし、これは「一国平和主義」と批判されることになります。
 
九条の改憲論議は、世界をどう平和にするのかという世界観がなければなりません。
とすると、やはり終戦直後に構想された「国連軍による平和」を目指すしかないと思われます。
そうすると、九条を改憲するのは逆方向であり、世界を九条に合わせるべきだという結論になります。